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2018年11月15日

縄文体質の史的足跡~第5回 故郷はなぜ想うのか~生きる場と社会の仕組みを生み出した惣村~

第5回は惣村とその派生としての一揆を扱います。

ふるさとは遠くにありて想うもの。

日本人が故郷を捨て都市に集中した時代を謳った室生犀星の歌です。故郷はなぜ想うのでしょう?
人々に残存する共同体意識の原点だからではないでしょうか?

縄文時代とは数十人から最大百人程度の小集団で結集していた時代です。しかしその集団同士のネットワークは贈与や婚姻関係を通じて交わり、強力で広く、網目のように広域の地域に広がっていた可能性があります。
絆や地域(再生)、繋がりといった言葉が2011年の震災以降、日本人の中に定着し、現代の日本人を語る代名詞の一つにもなってきています。マスコミの煽りもありますが、長い不況が続き、出口の見えない現在、これらの言葉の持つイメージ惹かれるのは古く縄文時代にまで遡る私たち日本人の心底にその原点があるのではないかと思うのです。
日本は有史以降、渡来人含めた支配層がお上という地位に立ち、時々に庶民を愚弄し、庶民とは全く別の存在(公家)として振舞ってきました。庶民とお上は、水と油であり、世が乱れれば庶民が立ち上がり、自治という名で生きる為の秩序を自前で作り出していきました。

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この自治こそ縄文体質であり、そこで作られた集団(惣村)こそが縄文体質を長らく庶民に残してきた仕組みだったのです。現在これらを当てはめれば悪政が続きお上が暴走する今日ほど縄文体質を顕在化させて惣村に変わる、或いはさらに進化させた新しい集団が求められている時代はないように思います。その力が我々日本人の中に眠っている事を信じて西欧のお題目だけの民主主義に変わる社会を作っていければ・・・。
それは○○主義ではなく自らの生きる場を自ら主体的に作っていく、そんな社会であり集団だと思います。すでにその萌芽は生産体側から始まっており、企業集団がその実現態として最初に走る出す事だと思われます。

 今回は当ブログで3年前にシリーズになった地域再生を歴史に学ぶの中から紹介してみます。それぞれの記事は文章が長いので、紙面の都合でエキスだけの紹介になります。記事に飛んで読んでみてください。

 

m282.gif地域再生を歴史に学ぶ~第2回 地域空白期は力ずくの律令制が作った
日本の地域共同体の歴史を見ていく際に、6世紀から13世紀にかけての中国風の律令制の禍根が負の足跡として残っている。縄文時代から弥生時代にかけて共同体の存続させてきた、人々の生きる基盤となった自治力はこの時代に影を潜めていった。しかし、それは完全に失われる事は無く、次の共同体再生の時代(惣村の時代)のステップとなっていった。農村自治の発生=惣村の登場とは荘園制度が生んだ派生物とも言えるが、裏返せば荘園制度によってずたずたになった社会秩序を再生する為に登場した自発的な組織だった。

 m282.gif地域再生を歴史に学ぶ~第4回 惣村の形成とはなんだったのか?
そもそも惣村とは何かという部分ですが、非常にわかりやすく言うと「自治の村」です。
それまでは、領主や荘園主が農民を管理して世帯主(あるいは家族)から上がりを徴収するという形でした。農地と居住地は同居しており、逆にそれぞれの住居は離れています。
惣村になるとこの状態ががらりと変わります。村請と言って、徴税の単位が個人から村単位に変わります。また居住地は農地から距離を置き、農民は1箇所にまとまって暮らすようになります。これが現在の農村の原型と言われる所以で、惣村以後の村はいずれも農地と居住地が離れる職住分離型となっているのです。村請となる事で、お上の税の取立てについても村単位で陳情を出すことができるようになり、過剰な徴税に対してブレーキがかかるようになります。
そしてこれらの村を維持運営していく上で村組織内での体制や秩序が様々に作られていくのです。その中に村の中での身分序列、法(掟)、裁判が独自に作りこまれていきます。

農民に至っては常に搾取と政治的矛盾の解消の矛先になり、それが最も著しい状態になった平安後期から鎌倉にかけて、農民自体が立ち上がる惣村という形態が発生したのです。そういう意味では惣村とは自発的でもあり、社会外圧が作り出した自衛組織でもあったのです。
惣村はその後もお上の圧力が高まる度に、組織拡大し、やがては惣村同士が有事の際に横に繋がる「与力」の村を作り出します。これが室町から戦国時代に度々登場する一揆を引き起こしていくのです。
さらに、惣村が発生した場所ですが、いずれも商工業の発展した「市」に立地していました。この市は街道の交差点に存在し、都市的な性格をもつ中心的集落であったとされています。惣村といえばのどかな農村で、農作物中心に生活していると考えがちですが、実際には、農業を基盤としつつも、商工業や漁業、林業とも密接に繋がった自給自足の組織体だったのです

そしてその影の主役に山の民、漁労の民が居るとしたら、彼らこそ、律令社会の狭間でその影響を受けずに縄文的資質を残してきた人たちです。律令制機能不全のこの時代に縄文の共同体資質、交易資質が再生したと見る向きもありますが、逆に縄文的ネットワークを持っている集団が農民集団に加わり、リードすることで組織が再生されたと見ることはできないでしょうか?
そういう意味で惣村の形成とは日本の大衆史において、危機発⇒縄文的共同性の再生であったと見ています。

m282.gif地域再生を歴史に学ぶ~第6回 一揆が成したのは共同体の結集
さて、一揆といえば百姓一揆、農民特有の反抗行動だと思っている方も多いと思いますが、一揆の本質は反旗ではありません。一揆の本質は連携であり、結束であり、決断であり、行動だったのです。著者は現代で言うと“運動”に近いとしています。また、一揆は農民特有ではなく、武士、寺院が先行し、やがて農民も同じ形態を取るようになったとされており、いわば中世の乱世の中でそれぞれの集団が新しい課題を前にして集団決議を取る方法論の一つだったのです。
一揆といえば反社会的行動にばかり目が行きますが、一揆がなした社会的運動論は共同体を超えた新しい集団、地域の原型といった生産的な部分が本質でした。また、幕府体制が始まる鎌倉時代から江戸にかけての大転換期に社会的決定を集団で成す、唯一の手法でもあったのです。

日本は乱世、混乱の時期ほど、集団的力を発揮し、その組織の作り方から決定の手法、実行の力まで豊かに創造してきたのです。日本人の問題解決の手法に武力や権力によらず、平和的解決、話し合いでの解決とはよく言われますが、一味神水で神の力を借り、それを集団的決議として事に当たる。集団で共認された事は森羅万象の神の決定と同義とする手法、慣習は実に縄文的資質を引き継いでいるように思います。

m282.gif 地域再生を歴史に学ぶ~第8回 江戸時代は惣村自治の集大成
押さえておきたいのは、江戸幕府は中央集権ではなく封建制でもなく、地方の事は地方に任せるを徹底した「村の自治」、「藩の自治」をベースにした信任関係を機軸にした世界でも稀に見る政府だったという事です。家康自身が乱世、戦国時代の教訓を基に作り出した政治手法だったのでしょうが、大衆(=農民)を支配する発想を全く逆転させたところに徳川家の凄さがあります。

江戸時代が地方自治に支えられた、かなり完成された社会であった事は想像がつきますが、このお触れにあるように、決して固定的ではなく、時々の事象(=外圧や課題)に対してその都度、中央(=幕府)も藩も村も自前で方針を考え対応していた事が優れていた点だと思います。
自治とは突き詰めればそれぞれが周りにおきる社会課題を自らの事として考える事なのです。そういう意味では江戸幕府もまた江戸という地域を自治していたのです。

 m282.gif地域再生を歴史に学ぶ~最終回 ノートとして
地域再生とはお上(中央)のチェック機構として必要不可欠であり、自治の本質とは一人ひとりが社会の当事者として組織を運営していく事だと思います。そしてその因子は縄文1万年間の間に私たちのDNAに刻印されており、有事の現在、まさに縄文、惣村で築いていった自治の精神が再生する絶好の機会なのではないでしょうか。そして地域や自治の本質はそれらを繋ぐ広域ネットワークにあるという事も今回学んだポイントでした。私たちがこれから地域論を考える際に忘れてはならないのが、いかに”繋がる”かという行動方針だと思います

投稿者 tanog : 2018年11月15日 List  

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