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2014年05月10日
日本人の可能性について記事紹介 ~なぜ今、縄文と古代文明の探求が必要なのか~
皆さんこんにちは。
楽しかったゴールデンウイークも今週で終わり。みなさんどんな黄金の日々を過ごしましたか?
ところでこの大型連休、実は日本史にちなんだお休みが多いこと、みなさん気付いていましたか?
4/29「昭和の日」は、昭和天皇の誕生日
5/3「憲法記念日」は日本国憲法の施行日
5/5「こどもの日」は古来より行われていた「端午の節句」にちなんだ祝日です。
私たちの日常の中にも、よく見てみるとこうした「日本の歴史」「古来からの風習」に触れる機会がたくさんあることに気付かされます。
さて、当ブログ「縄文と古代文明を探求しよう!」では、開始以来、日本の古代・縄文時代を中心に、さまざまな角度から追及を行ってきました。
時には専門的で馴染みの薄い言葉が飛び交う記事もありましたが、本ブログの趣旨は、単なる古代史の研究、紹介に留まるものではありません。
なぜ、今、みなさんと「縄文と古代文明を探求」する必要があるのでしょうか?
今回は初心に戻って、過去の記事を振り返りながらその目的を考えてみたいと思います。
古代史を追求する意味
まず最初に、当ブログの 「古代史を追求する意味」 から引用します。
(前略)
日本人の可能性の中でも特に注目が高いのが、認識論(認識手法)の違いです。
しかし、一神教世界の西欧と、多神教(八百万の神)の日本という理解だけでは、今後の日本人の可能性としては不十分です。
人間の本質たる共同性に、略奪闘争の有無が大きく関わっている(日本人の可能性 共同性の差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い)ことは疑う余地がありませんが、残存する”共同性”を使って日本はどのような社会を作り上げてきたのかを具体的に追求し、今後の可能性を探ってみようとして始まったのが、『古代日本史の研究』であり「日本人の起源の追求」でした。
(中略)
現在の社会問題を捉えたとき、それを「なんでこうなったんだろう?」と原因を考えるということは、結局は歴史を遡り、その構造を明らかにすることなのだという部分は共通しています。
昨今の歴史ブーム、特に歴史を物語として(ストーリーとして)語る書物への人気は、この潮流を反映しているように思います。
現代社会問題の「なんでだろう?」の答えは、歴史構造の中にこそある。このことを常に意識しながら、引き続き日本古代史を追求していきます。
以上引用終わり
「現代社会問題」を考える場合、さまざまな角度、切り口があります。歴史構造もその一つですが、昨今の問題に対する研究を未定見ると、たとえば経済問題については近代以降の経済学や経済史、たとえば教育問題に辻手は近代以降の教育システムの研究、といったように、歴史追及といってもそのレンジが近代以降に留まっているのが現状です。
また経済は経済、教育は教育といった形で、相互の問題を巨視的に捉えた研究は進んでいません。
そしてこれらの研究が、現代社会問題に対する答えを導き出せていないことも事実です。
そこで当ブログでは、歴史構造、そのなかでも最深部にあり、私たち日本人の精神構造の基盤をなしている「縄文」や「古代」に照準をあて、より深く、そして普遍的な追求と問題構造の解明を行おうと試みました。
「縄文・古代」の中にこそ、「現代」の様々な問題の本質を抽出し、その解決指針を見出す「答え」があるのではないかと考えました。
次に、以下の記事を紹介したいと思います。
【日本での私権社会の変遷】
(中略)
常に戦争が絶えず、国境が刻々と変化してきた世界の国々は私権社会の純度の高い国家です。
一方、国家成立以降大きな戦争もなく、国境は海に守られ、一度もまともな侵略がなかった日本は私権社会の純度は当然異なり、 裏返せば縄文時代に培った不文律の共認原理が色濃く残存し、その影響は現代人にまで刻々と繋がっているのです。
【縄文時代をどう評価するか】
この縄文時代の共認を母体とした日本国の可能性をどのように評価するのか、またこの間世界に起きているさまざまな諸現象をどう読み解くか?
これは現在の先進諸国が私権社会の終焉を示しているとの見方が必要であり、新たな社会秩序の形成には私権社会以前の自然の摂理を見つめ、集団共認をベースにした本源社会に可能性はあるのではないか?というところに糸口を求めようとするものです。
5000年も前の社会にもどるということではありません。あくまで集団や成員の拠り所とする意識の状態として、あるいはそれを統合する社会の規範や形態として、どのような認識や仕組みが適しているのか、それを模索していこうとするのがこの縄文ブログの役割なのではないかと思っています。
【私権社会(=市場社会)に変わる新しい社会の模索こそ当ブログの役割】
20世紀はまさに工業生産から近代市場の成長に載って欧米が世界の中心でした。しかし、すでに欧米に凋落が始まっている現在、21世紀は明らかに別の時代が到来します。市場社会に変わる次の社会とは何か?同じように物が流通し、人は行き来するのですが、その中心に互いの親任関係や人々の認識を中心とした共認時代が到来することになるのではないかと考えています。
まだまだ半熟卵ですが、既に50名強の歴史に精通した会員が結集しているこのブログではこれから数年以内に広く社会に提起できる共認社会の政策提案まで目指していきたいと考えています。
以上、引用終わり
現在は、私権社会・市場社会が当たり前のように考えられています。政治も経済も教育も、全て市場ありきで考えられています。
こうした社会を支える観念群(いわゆる近代観念)もまたしかりです。
しかし、これら近代観念が現代の諸問題に答えを出す事に、多くの人は可能性を感じていません。
今求められているのは、こうした役に立たない近代観念群に変わる新たな認識の構築です。
近代観念は、私権・略奪闘争と市場拡大を前提とした欧米社会の産物です。
これを世界標準と捉えていては答えは見えません。
しかし日本は、島国と温暖な気候・風土ゆえ、大陸の略奪闘争に巻き込まれる事なく人類本来の共同体性を維持してきました。
ここにこそ時代の可能性があるのではないか、と私たちは考えました。
縄文・古代史は、学校教育でもあまり扱われません。
しかしここにこそ私たち日本人の精神の起源があり、行き詰まった近代観念に変わるあたらしい認識を見出すヒントがあるのだと思います。
それを探求し、時代に役立つ普遍的な認識構造を見出すことこそが、当ブログの目指すところです。
これからも、皆さんと一緒に、広く深く、追求を続けてゆきたいと思います。
これからも「縄文と古代文明を探求しよう」を、どうぞよろしくお願いします!
投稿者 katsuragi : 2014年05月10日 TweetList
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コメント
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2015年3月18日 18:56
そうですね。
欧米の私権社会と日本の縄文的共同社会の色濃い社会とでは、
感覚がかなり違うのは当然です。
今、日本社会のおもてなし文化が世界に注目されているのは、日本の縄文的思考社会ゆえなのでしょうか。