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2015年01月15日

地域再生を歴史に学ぶ~第4回 惣村の形成とはなんだったのか?

プロローグで以下のような提起をしました。
>彼らが改めて自分の地域という意識を持つようになったのが鎌倉時代後半から登場した”惣村”という集合体でした。小作農の登場によって誕生した惣村は現在に繋がる農村の原形となっており、それが現在の地域意識の原型を作っている可能性があります。

第4回はこのテーマの中心部分である惣村について考えていきたいと思います。
“原型を作っている可能性”という部分をもう少し掘り下げていけたらと考えています。惣村を調べる中で非常に有益なサイトがあったので先に取り上げた網野先生の著書(列島の歴史を語る)とこのサイト(HP:学校を変えよう)を主に参考にしながら進めていきます。

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久宝寺村の百姓七朗兵五名の署名による全十ヶ条の訴状

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■惣村とは何か
そもそも惣村とは何かという部分ですが、非常にわかりやすく言うと「自治の村」です。
それまでは、領主や荘園主が農民を管理して世帯主(あるいは家族)から上がりを徴収するという形でした。農地と居住地は同居しており、逆にそれぞれの住居は離れています。
惣村になるとこの状態ががらりと変わります。村請と言って、徴税の単位が個人から村単位に変わります。また居住地は農地から距離を置き、農民は1箇所にまとまって暮らすようになります。これが現在の農村の原型と言われる所以で、惣村以後の村はいずれも農地と居住地が離れる職住分離型となっているのです。村請となる事で、お上の税の取立てについても村単位で陳情を出すことができるようになり、過剰な徴税に対してブレーキがかかるようになります。
そしてこれらの村を維持運営していく上で村組織内での体制や秩序が様々に作られていくのです。その中に村の中での身分序列、法(掟)、裁判が独自に作りこまれていきます。

さらに、惣村の形成過程において、最も重要だったのが村単位の武力です。この武力は村同士の争いを止揚したり、村を殲滅させようとするお上や武士に対しても使われた自衛力です。秀吉が農民に対して刀狩を行ったことは有名ですが、武士階級を脅かすほどに当時の惣村の武力が形成されていたことが伺えます。

 ■惣村はいつ頃、どこに誕生したか?
この惣村はいつ誕生したかを見ていきます。
大きくは惣村の誕生も消滅も中世600年間(10世紀から16世紀)に位置します。この600年間とは日本にとってどういう時代だったのか?様々な切り口はあると思いますが、一言で言えば乱世です。乱世と言えば応仁の乱、南北朝戦争、さらには戦国時代をイメージしますが、平安時代後半から江戸時代直前までの600年間は一貫して中国外来の律令制が破綻する中で秩序が全く安定しない乱世の中でした。これは政治体制もそうですし、当然その下にいけばいくほどその煽りを受けていました。
農民に至っては常に搾取と政治的矛盾の解消の矛先になり、それが最も著しい状態になった平安後期から鎌倉にかけて、農民自体が立ち上がる惣村という形態が発生したのです。そういう意味では惣村とは自発的でもあり、社会外圧が作り出した自衛組織でもあったのです。

惣村はその後もお上の圧力が高まる度に、組織拡大し、やがては惣村同士が有事の際に横に繋がる「与力」の村を作り出します。これが室町から戦国時代に度々登場する一揆を引き起こしていくのです。
秀吉の刀狩で惣村の武力は押さえ込まれますが、惣村が消えたのは後の江戸時代です
これは後の記事で扱いますが、江戸時代に消滅したのはそれまでの自治が藩という形で代替わりしたことによって惣村機能が一段上のお上に認められた公的な組織に昇華したのだと思われます自発的に登場し、自発的に消滅=自然消滅したのです。
言い換えれば、惣村とは乱世と同時に登場し、乱世が終わると消滅したとも言えます

次にどこで誕生したか?という事ですが、平安後期から鎌倉時代にかけて畿内に発生した惣村は戦乱が全国的に拡大する南北朝時代(13世紀~14世紀)には全国に拡大したといわれています。しかし、畿内以外はそれまでの支配単位の荘園や公領の範囲が村に変わったに過ぎませんが、畿内では百姓の団結、自立の傾向が強く、惣村同士が横につながり結集する惣壮、惣郷と呼ばれる形態に発展していきます
さらに、惣村が発生した場所ですが、いずれも商工業の発展した「市」に立地していました。この市は街道の交差点に存在し、都市的な性格をもつ中心的集落であったとされています。惣村といえばのどかな農村で、農作物中心に生活していると考えがちですが、実際には、農業を基盤としつつも、商工業や漁業、林業とも密接に繋がった自給自足の組織体だったのです

前記事のコメントに以下のような記述をいただきました。これをヒントに次の仮説を展開してみたいと思います。
>律令制への反動というより、もしかすると律令制以前からの職域集団=連(造)時代の部民の職域共同体意識が、もともとヨコ意識として色濃く残っていたのではないかという気がしてしまいます。この自負心のあるコミュニティ意識は、律令制時代の水面下をくぐり抜け惣村の請負へと伝承されていったものだとしたら、学ぶべきところは多いと思います。(ジェロニモ様)

■職人集団達が惣村立上げの旗揚げ役ではないか?
これは全くの私の仮説ですが、惣村をお百姓さん自身が自立的に立ち上げたというのはあまりにも突然変異的で少々考えにくい。どうも総合プロデューサー的な人物、職能が存在するのではないか?そこで上記のジェロニモ様の提案を下敷きに考えたのが、非農業者である職人や漁民、山民といった移動や交易といった横の繋がりを生み出す人々が惣村に絡んでいたのではないかと思っています。

網野義彦氏はこの中世の市や交易に従事した人々は純農民達からは出ていないとしています。
>いままで交易といいますと「農民」という考えかたがもとにある。弥生時代以降農業から商工業者が分離した、あるいは農業以外の生業が分離したというように、あくまでも農業がもとです。社会的に見れば、農業生産者が発達し、「農民」と「漁民」がはっきり分かれてきたという意味で使われ、イメージとして「商人」は「農民」から出て行ったというのが多いように思われます。しかし、私がいままで調べてきた中世の商人、ある程度交易をしている人は、いわゆる純農民から現れたというのは非常に少ないです。漁労民あるいは山の民のような集団から出た商工民が圧倒的でありまして、主として漁労をしていた人、あるいは主として山で生活していた人から商人の集団は出てくるように思います。

上記のように考えると符合することがあります。
職人集団が早期に発達した畿内に惣村が発生したこと。
市ができる場所に惣村が発生したこと。
惣村自体が横の組織との連携を作り出して言った事。

そしてその影の主役に山の民、漁労の民が居るとしたら、彼らこそ、律令社会の狭間でその影響を受けずに縄文的資質を残してきた人たちです。律令制機能不全のこの時代に縄文の共同体資質、交易資質が再生したと見る向きもありますが、逆に縄文的ネットワークを持っている集団が農民集団に加わり、リードすることで組織が再生されたと見ることはできないでしょうか?

そういう意味で惣村の形成とは日本の大衆史において、危機発⇒縄文的共同性の再生であったと見ています。

投稿者 tanog : 2015年01月15日 List  

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