ユダヤ教の前身であるイスラエルの宗教について |
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2009年09月18日
イスラム教は集団秩序維持のための宗教
こんにちわちわわです。
イスラム教はどのように広まっていったのか?
The Purple Chamber of World Historyより紹介します。http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history10.html
ビザンツとササン朝の間で争奪が繰り返されるシリアやメソポタミアの南には、広大な乾燥地帯であるアラビア半島が位置し、「アラブ人」とよばれる人々が小都市や遊牧集団ごとに分かれて住んでいた。7世紀前半、彼らを統一して歴史の表舞台に押し上げた人物が、ムハンマドである。
ムハンマドは交易都市メッカの商人だったが、40歳頃に新たな宗教の教祖となった。彼は自らの教えを、「唯一の神に絶対服従すること」を意味する「イスラーム」という名でよんだ。ムハンマドは、この唯一神をユダヤ教やキリスト教の神と同じものとしつつも、自分こそが唯一神の言葉(啓示)を正確に伝える「神の使徒」であり、その信者(ムスリム)こそが真の一神教徒だと述べている。
ムハンマドがあまたの宗教家と違う点は、政治指導者と軍の司令官をも兼ねる異色の天才だったことにある。彼は622年にヤスリブ(のちのメディナ)の町で自らに従う人々からなる「共同体」を結成し、外交と戦争を駆使しつつ、わずか10年でアラビアの都市や遊牧民を大部分従属させたのだった。
イスラームはいわば、ムハンマドのめざす新たな国づくりのための理念だったとも解釈できる。実際、ムハンマドが伝えた啓示には結婚、訴訟、刑罰、商取引など、社会生活に関わるものも多い。「すべての信者は神の下に平等である」ことが強調されたのも、雑多なアラブ人集団を信仰によってまとめようとしたためであろう。
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しかし、ムハンマドの死後(632年)に共同体を率いることになった後継者(「神の使徒の代理」、通称カリフ)による統治は、早々に壁にぶつかることになった。カリフは合議で選ばれた「信者の代表」にすぎなかったため、ムハンマドのような宗教的権威を用いることができず、政治的力量のみで反抗的なアラブ人集団を従わせていかねばならなかったのである。
ビザンツやササン朝への軍事遠征は、そうした中で企画された。貧しいアラビア半島に閉じこもっていたのでは、互いの財産を奪い合う昔の状態にもどりかねない。いわば苦肉の策として、血の気の多いアラブ戦士たちを農耕地帯の略奪に向かわせたである。これは、予想をはるかにこえる成果をあげた。長年の戦争で疲弊していたビザンツとササン朝は総崩れとなり、アラブ人は思いがけず、シリア、エジプト、メソポタミア、イランなど広大な経済先進地域の主人となったのだった。
ところが、突然転がり込んだ富の配分をめぐって共同体はかえって混乱し、凄絶な権力闘争の場となってしまった。7世紀末に、メッカの富豪出身のウマイヤ家がライバルを打倒し、カリフ位を世襲する事実上の王朝を築いて内乱は収まったが、短命に終わった。政局が安定したのは、ムハンマドの叔父の家系にあたるアッバース家がウマイヤ朝を倒し、新王朝を築いた8世紀中頃のことだった。
アラブ人の支配はイベリア半島からインダス川流域にいたる空前の範囲におよんでいた。しかし、アラブ人は自らの信仰であるイスラームを征服地の住民に押しつけることは一切なかった。征服の目的はあくまで戦利品や税の獲得であり、異教徒を討伐するとか、ムスリムに改宗させるというようなことは意図していなかったのである。かりにそんなことをすれば圧倒的多数を占める被征服民の反発をまねき、とても統治などなり立たなかったにちがいない。
そればかりか、アラブ人は被征服民がイスラームに改宗することを歓迎していなかった節がある。
過酷な軍務に従事しているアラブ戦士にとって、最大の関心事は「富」である。したがって、彼らに給料を支払うことがカリフ政府のもっとも重要な仕事となる。その財源は、被征服民が従来の信仰を保持する代償として納める租税であった。すなわち、アラブ人の豊かな暮らしを支えるためには、「異教徒」の負担が不可欠だったわけである。
ところがここに、被征服民がイスラームに改宗すれば納税を免れることができるのか、という重大な疑問が生じる。実際、8世紀初頭から、アラブ人の家臣となって改宗することで税逃れをする者が続出していたのである。「信者の平等」という建前からいえば、「改宗者」にもアラブ人と同等の免税特権を与えるのが筋だが、そうなると被征服民から税を集めアラブ戦士に配分するという体制が崩れかねない。この問題に対するウマイヤ朝の対応は二転三転し、そのまずさが王朝崩壊の一因となった。
ホラーサーン(北東イラン)のイラン人の力で政権を奪取したアッバース朝の場合、この「改宗者問題」に対する解答は明快であった。すなわち、アラブ人の特権を廃止したのである。従軍もせずに禄ばかりはむアラブ人への給料は停止された。また、土地を持っている者にはすべて、宗教や種族に関係なく地税が課せられた。
こうして、イスラームの原則である「信者の平等」はいちおう実現された。異教徒にはあいかわらず余分の税が義務づけられていたから、イスラームへの改宗者は次第に増えた。たとえばイランでは、アッバース朝成立時は8%だったムスリムの割合が、9世紀はじめには40%、10世紀には70~80%に達した。そして、中央官庁や軍にはイラン人を中心とする非アラブのムスリムが多数登用された。
つまりアッバース朝は、少数のアラブ人からなる「支配者共同体」から、急増しつつあるムスリム全体に支えられた真の「イスラーム共同体」への転換をはかったのである。このことは、カリフ政権の正統性を支える根拠が、「アラブ人支配者グループの同意」から「イスラーム的な政治の履行」にかわることを意味した。
イスラームはもともと、個人の内面だけでなく「政治や社会はいかにあるべきか」をも問う教えである。もっとも、ムハンマドの死後に神と交信できる者はいなかったから、共同体の運営はアラブ古来の慣習にのっとっていたのが現実であった。しかも、アラブ人には帝国統治の経験がないため、征服地ではビザンツやササン朝の行政組織や法をそのまま利用する形をとらざるをえなかった。しかし、アッバース朝の頃になると信者が増加した上に教えの体系化も進み、イスラームを政治の現場にどう生かすかが模索されるようになった。
イスラームの根幹は、ムハンマドが伝えた「神の命令」たる啓示である。これは、650年頃カリフ政府のもとで集成され、「クルアーン」とよばれる聖典となっていた。ただし、クルアーンの主題は「神と人の関係」であって、行政や司法において必要な「人と人の関係」についてはおおまかに述べられているにすぎない。そこで、生前のムハンマドが具体的にどのような指示を出し、裁定を下したのかが研究の対象となった。
このようなムハンマドの言行録を集め、検証したのは、熱心な在野の学者たちであった。9世紀中頃の大学者ブハーリーはとくに有名であり、収集した60万あまりの伝承のうち信頼度が高い7200あまりを「真正集」にまとめている。クルアーンや伝承に頼っても解決が難しいような問題に対しては、学者たちが様々な解釈を行ったり、互いに意見を交換したりして結論を導くようになっていった。
アッバース朝はあまりに巨大だったために9世紀中頃からたががゆるみ、軍人や総督が自立して分裂の時代をむかえる。しかし、地方政権の首長たちも、イスラームに精通した学者たちを尊重しないわけにはいかなかった。学者たちは、権力者に助言を与えたり、地域社会の相談役となったりして、「法」を司る地位を確立していった。
イスラーム世界は多くの国が分立していても、神に由来する「法」が通用することで秩序と統一性が維持されたのである。
投稿者 tiwawa : 2009年09月18日 TweetList
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コメント
投稿者 2310 : 2009年11月24日 21:48
>これが理解できないのは、やはり、なにかの無駄な観念が邪魔しているように感じています・・・
“観念”で“理解”することに無理があるのでは?
言葉を持たない始原人類たちは、それこそ全身全霊で同化しようとしたのでしょうね。
投稿者 匿名 : 2009年11月28日 22:09
例えば自分の足の裏に感謝してみる・・・
日常では、あまり、考えたことがないですね。
足の裏に感謝することってほとんどないと思います。
縄文の昔、もっと昔から人は、周りの気配や動きをもっと敏感に感じ取ることができ、流れは動きに同調していけたのだろうなぁと思います。
1点だけ疑問なのは、やはり、無防備な人間にとっては、自然や別の生物は、自分の不全そのものだったはずで、それを、注視しながら、同一視してしてこれたのは、やはり、生き延びようとして環境に適応する機能が強く発揮されたからなのだろうと思いますが・・・
これが理解できないのは、やはり、なにかの無駄な観念が邪魔しているように感じています・・・