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2009年09月19日

バビロニアでは、全てが「銀」で計られるようになった。

裏の支配者 その起源を探ってベネチア商人からカルタゴ商人、フェニキア商人そしてバビロニアの商人に遡っています。
今回はバビロニアで生まれた古代の商人の姿を探索します。 🙄
人と人の関係に共同性が失われ、人々は私権に収束せざるを得ず、全ての価値が「銀」の量で計られるようになってしまった時代、王直轄の交易は、王から独立して交易をはじめた宮廷使用人が商人による交易へ、そして金貸しが富裕層になっていきます。
by tamura
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(この写真の「粒銀」はシュメールのものではありません)
●銀が全ての価値を示すようになった時代
4100年前「ウル第三王朝」当時、「銀」が物の価値を表す普遍的手段になっていた。
普遍的手段とは、「銀」が主要穀物である「麦」と一定の重量比率で交換されていたからである。
(ただし、交換比率は収穫期前後に大幅に変動する「変動相場」であり、ここに後の金融の萌芽が見られる。)
普遍的手段というのは、もう一つの意味がある。
麦だけではなく、「全てのもの」が銀で計られるようになっていた。
その例をウル第3王朝初代王(ウル・ナンム)が制定した「ウル・ナンム法典」(現存する世界最古の法典)に見ることができる。(参考:最古の法典 シュメールのウルナンム法典「るいネット」)
同法は「損害賠償法」というべきもので、殺人、傷害、強盗、強姦、不倫その他のあらゆる犯罪や不忠に対して「銀○○を支払うべき」と定めている。
例として、以下のような定めになっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第8条:もし人が他人の処女である奴隷身分の妻を暴力に及んで犯したならば、銀5ギンを支払うべきである。
第9条:もし人が彼と対等(の身分?)の妻を離婚するならば、彼は銀1マナを支払うべきである。
~~~
第19条:もし人が棍棒でほかの人の[…]骨を砕いたならば、彼は銀1マナを支払うべきである。
第20条:もし人が…でほかの人の鼻を傷つけたならば、彼は銀3分の2マナを支払うべきである。
第21条:もし[人が…]で[ほかの人の…]を傷つけたならば、彼は銀…マナを支払うべきである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●何度も王国が入れ替わるのも銀が原因か?
当時、銀は小さくちぎられた粒の形で、いわゆる「粒銀」として使われることもあったし、延べ棒や(装身具としての)腕輪あるいはまた道具の形態でも流通していた。(参考:貨幣史3「るいネット」)
しかし、銀が使われたのは農民や職人の世界ではなく(彼らは「麦」を日常的な交換手段として使っていた)、商人、それも遠隔地交易商人の話である。
ただし、この頃の遠隔地商人とは、いわゆる「商人」とは異なり、将軍or行政官というべきもので、王の委託を受けて麦を始めとする農産物を遠隔地に売り、銀や財宝と交換していた。(参考:海上交易の世界と歴史「オリエント遠隔地交易人の登場」
銀を使って高額な取引を行ったのは、将軍(行政官)だけではない。まず、王自身がそうであった。
シュメールのウル第3王朝の創始者「ウル・ナンム」は、ウル市の行政官(将軍)の地位から進撃を開始して王国を建設しているところから見て、当時の王朝そのものが支配地域の穀物を元手に銀を集め、さらにそれを元手に穀物と軍隊(司令官、および奴隷)を得て軍事力を強化していたと思われる。
将軍が銀を蓄えて力を得て王国を転覆させるのが、当時の王権交代の姿だった。
ウル第3王朝は初代ウル・ナンムから5代目にあたるイビ・シン王は、部下の反逆を受けて倒れる。
 
飢饉で麦の相場が高騰し60倍になったためにウル王国の農民と自由民が窮する事態になった。イビ・シン王はイシュビ・エッラ将軍に多量の銀をもって麦の調達を委託し、将軍は遠方に地へと麦の調達に向うが、麦を購入するために与えられた銀を横領、反逆した。イビ・シン王がこれに激怒したが、多量の銀を持ったエッラ将軍はこれを元手に軍勢を整え、逆にイビ・シン王は捕らえられる。
(参考記事:シュメールの商取引例「るいネット」)
穀物、人の命、そして国家、すべてが「銀」で計られる時代だった。
地中海でフェニキア商人が盛んな交易活動を展開する1000年も前に、メソポタミヤで「お金がすべて」の世界がはじまった。
●交易は行政官から自立した商人へ
 →高利貸し、大地主の登場と、国家による金融規制の始まり

3900年前「バビロン第一王朝」
銀を決済通貨とし、農産物、および織物と宝石などの贅沢品を扱う交易は、行政官から下請け商人、そして宮廷の使用人から独立して生まれた商人へ、その主軸が移っていく。
しかし民間の商人が遠距離交易で銀や商品を持ち歩いて旅するのは危険である。そこで彼ら商人は組合を組織し、銀や商品を持ち歩くことなく商売ができるよう信用決済を始めた。信用は粘土板である。
さらに、組合から商売の元手の銀を貸す商人が生まれ、彼らは特化した富裕な高利貸しと化していく。
彼らはまた大地主でもあった。
当時を記録する粘土板には、種籾を借りたものの返す事ができずに奴隷にされていく農民や、家族の生活のために銀を盗んだ男が捕らえられ、男は殺され、その妻と娘が盗まれた男の女奴隷にされる、荒んだ世相が記録されている。
3750年前
バビロン第一王朝
の5代王ハムラビは「ハムラビ法典」を制定する。
賃貸借や(商人に金を貸す場合の)利息が定められるようになる。
第89条:商人間の貸借における利息の上限として、銀の場合では20%、大麦の場合では33+1/3%と定める。
ハムラビ法は復讐を定める事で犯罪を抑止するともに、金融規制の始まりでもあった。
このころから交易の中心はペルシャ湾から徐々に地中海へと移り変わっていく。
特に3000年前、アッシリア王国がメソポタミヤ地域一体を支配した頃になると地中海貿易が盛んになる。
これは、アッシリア王国が反乱を防ぐために被支配民の強制移住を徹底して行った事に関係があるかもしれない。

投稿者 nandeya : 2009年09月19日 List  

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コメント

>日本の農村の半分以上は親類のことをオヤコと呼んでいた。
親子というのは観念でしかないというのを改めて考えさせられました。そう考えると現代において親子関係はもっとも強いシガラミではないかと思わせます。親子がどんどんうまくいかなくなっていることもあります。新たな親子関係?現代の親子関係を発展解消させるのが、性をも包摂した共同体なのでしょう。
古来、共同体にとって子どもは大切な働き手であり「共同体の子」。女性は共同体のために産み、みんなで育てる。女性にとって子供は充足存在。だから多くの子どもをみんなで育てた方がより充足できるはずです。

投稿者 くまな : 2009年11月22日 00:53

オヤコの方言の分布は語源は、津軽、山形、伊豆、沼津、甲州と、本州北部に分布しており、西は鳥取、島根に存在するだけで、九州は皆無のようです。
この現象は他の方言と全く異なる様相を示しています。
各地方に親戚の意味を表すオヤコ集団があり、集団が接するたびに共通語としてオヤコという言葉が広がっていったのではないかと思われます。
農耕が始まる前の縄文時代から、このオヤコを核とした共同体が自らの集団をオヤコと呼んでいた可能性さえあります。
朝鮮半島から鳥取、島根へ上陸し、関東へ広がっていった可能性もありますが、いずれにしても、現在の家族に歪曲された親子関係とは違った集団を第一義としていた民族性がうかがえると思います。

投稿者 馬 : 2009年11月23日 15:27

こんばんは。
現代の日本にも、親子関係にこだわらず、生まれた子供は集団皆で育てるということを実践している共同体があるようですね。
ちょっと注目してみました。(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=206752)

投稿者 鯉太郎 : 2009年11月26日 21:14

こんばんは。
私は農村の生まれ、オヤコという言葉こそありませんでしたが、古き村落共同体を色濃く残していました。
そこには親子関係といえども、血縁を超えた地域としての共通課題があったように思います。
翻って現在においては、仕事の場と家庭とが分断したおかげで、家庭には何の圧力も働かず、共通課題も無くなりました。
こんな状態では、家庭は子育て機能すらまともに満たせないですね。
>仕事と生殖・解脱が一体
これがやはりまともな集団のあり様なのだと思います。

投稿者 匿名 : 2009年11月28日 22:01

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