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2021年12月31日

【縄文再考】全国各地にある竪穴住居は北方適応住居だった。シベリアから技術流入したか?

縄文人の生活に欠かせない竪穴住居。茅葺き屋根の姿が一般的には認知されていますが、最近の研究で、「土屋根もあった」というニュースが話題になっています。
また、「凍結深度以下」まで掘り、地熱利用していたという説や、食料貯蔵説も話題に上がっています。
本ブログでも挙げられている北方ルートとの関係、そして集団性の変化などにつなげていきます。
以下論点です。

①現在述べられている学問的見解のまとめ
②北方ルートとの関係(http://web.joumon.jp.net/blog/2021/12/4562.html

 

 

①現在述べられている学問的見解

・竪穴住居焼失後の調査で土屋根を確認(縄文人の家、「茅葺き」から「土屋根」へ 研究30年の成果 – 産経ニュース (sankei.com)
縄文時代の竪穴住居跡の調査では屋根の材料、形状までは解明されていませんでした。これまで復元されていた茅葺きの屋根はイメージ(他民族の住居を参考に)でしたかなかったのです。
焼失跡に良好に土・植物の炭化材が残っていた遺跡があり、土屋根の住居があったことが明らかになりました。
⇒土葺き屋根は非常に防寒性、保湿性に富んでおり、寒さを凌ぐのにはもってこいというわけです。
⇒茅葺きは内外で空気の流入がありますから、建物内部でも外気と同様の気温だったでしょう。土葺きは樹皮などの屋根材に土でサンドウィッチすることで断熱効果をとっていたとされています。
⇒住居は2つ1セットで構成され、集落内に竪穴住居跡が10あれば同時に建っていたのは4~5と言われています。冬用の土葺きの住居と夏用の茅葺きの住居を住み分けていたと考えられています。

・凍結深度以下で地熱を利用した暖の確保(北の縄文(縄文人の住居・集落) – 環境生活部文化局文化振興課 (hokkaido.lg.jp)

南茅部町大船遺跡の竪穴住居跡で特徴的なのは深さが2.4mと他の遺跡のものに較べ際立って深い点です。深さが増すほど内部の温度が一定に保たれる
⇒凍結深度以下まで掘り下げるのも、北海道という寒い地域の特徴。北海道は2.0m~2.4mですが、本土の一般的なものは60cm~70cmです。
⇒逆に夏は湿気による劣化や腐敗などを防ぐために高床式住居が建てられていました。国内最大の三内丸山遺跡では樹皮、土、茅葺きの3種類が復元されている。

・食料貯蔵のために地下の安定した温湿度を利用(縄文時代の“竪穴住居”を知れば、火と水、土との暮らしかたが見えてくる。今こ | SuMiKa | 建築家・工務店との家づくりを無料でサポート
中2階をつくってそこに食料を置き、下で火を焚いて、乾燥させて保存していました。
また、竪穴住居の床からさらに掘り下げ、恒温倉庫としていました。

 

以上のように現在述べられている学問的見解から、★竪穴住居は北方地域に特化した住居と言えます。(または寒波の訪れる冬の住居)

ということは北海道や東北を中心に広がっていたと推測できます。本ブログではさらに北のシベリアから縄文人が流入してきたと追求しています。その関係を探っていきましょう。

 

②北方ルートとの関係

http://web.joumon.jp.net/blog/2021/12/4562.html)約二万年前にシベリアから北方縄文人流入(細石刃を伴う)というのが良く知られています。

最終氷期最寒冷期にはシベリアと陸続きであった北海道は、後期旧石器時代から大陸と文化を共有しており、北海道に見られる湧別技法という石器技法は、シベリアにも見られています(遠くバイカル湖周辺まで共有)。
まずは道具に関しての共通点ですね。

次に住宅です。住宅の特徴でいえば、「竪穴式住居のカバ」や、「移動式住居のオグダ」など類似する点が多いのです。

カバは竪穴式であり、建物内部には暖炉があります。オンドルのようにベンチがあり、その上で就寝していたとか。

オグダは円形で支柱として3本とY字の股木、夏は樹皮で覆い、冬はアザラシの皮を覆う。また、ナナイ族は夏と冬で目的に応じて住み分けていたという。

縄文時代の竪穴住居にもオンドルようなベンチがあったとされています。また、樹皮で覆うことはもちろん、冬用には土屋根の住宅で住み分けています。かなり似ていますね。

画像:オグダ

 

以上のように現在知られている縄文時代の竪穴式住居はシベリアと大きく関係しています。

陸続きで交流があったことは事は間違いないですね。

 

縄文人は、自然を受け入れ共生し、外からの技術を受け入れ真似ることで生きる力を強めています。

「自分たちの力で生きる」のではなく、「生かされている」から共生し、素直に受け入れ真似る生き方をしているのでしょう。

 

北方ルートは集団構成や、役割なども大きな影響を与えてそうですね。

次は集団性なども追求していきます!

投稿者 matudai : 2021年12月31日 List  

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コメント

大変興味深い記事でした。
冬用と夏用が使い分けられていたとは考えた事がありませんでした。

時代は全く違いますが、出雲の「たたら製鉄法」もアルタイ山脈の突厥系民族の製鉄法と共通するとかと本で読んだ記憶があります。

投稿者 ミトラ : 2022年1月10日 10:09

ミトラさん
コメントありがとうございます。

冬用と夏用で使い分けし、余った穴は墓などに再利用されていたとか。
縄文人はモノをつかうのが本当に上手ですよね。それも自然に生かされているからこそ、注視していたからだと思います。

こちらも大変興味深い認識をありがとうございます。
日本と海外のつながりは強いですね。特に日本は「真似」から強くなっているのはどの時代でも共通かもしれません。その原点が縄文時代だと思います。これからも追求していきますね。

投稿者 縄文 中の人 : 2022年1月11日 19:34

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