日本の神仏習合 ~神と仏の共存 |
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2008年12月20日
縄文ワールドⅡ
縄文遺跡で有名な青森県の三内丸山遺跡では、今も発掘が続いています
これまで発掘された石器を紹介します
そこには縄文人の優れた生活技術を目にする事が出来ます
三内丸山のHPからの抜粋です
クリックお願いします
○約1万5千年前、氷河期の終わりごろから日本列島は急激な温暖化が始まります
約1万3千年前には南から徐徐にクヌギ、コナラ、ミズナラなどのコナラ亜属の広葉樹が広がる森が形成された。鹿や猪がすむ豊かな森である
海では海水面が上昇して内湾が形成され、内陸から栄養分を含んだ水や土砂が運ばれて魚介類が繁殖した。
このように四季折々の豊かな山と海の幸は人々の生活を大きく変えた
旧石器時代と縄文時代とでは大きく変った点は以下の4つと言われている
1 温暖化による環境成立(海水面の高さ、列島の概形、気温・気候、動植物相)
2 定住生活が始まる
3 土器の製作
4 石鏃の出現、石皿・スリ石、・くぼみ石の普及
(以上は岡村道雄、縄文の生活史」より抜粋)
○今回は石器を紹介します。縄文人は生活の用途に応じて、まるで大工道具のように石器を作り、実に多彩に使いこなしていたことが分かります
縄文時代も細石刃や打製石斧等旧石器時代から続いて利用されていたや石器があります。
それに加えて、上記の豊かな森に棲む中型獣や鳥類の捕獲のための石鏃や小型の槍が、また魚類の捕獲用には骨角製の釣り針魚網用の石錐などが考案された。
どう見ても石鏃は矢じりに使われたと思われるので弓矢の発明・普及もこのころでしょうか
又、木の実の加工用に使う石皿、敲(たたき)石、すり石が急速に普及して来ます
※写真が小さくて見にくい方はHPをご覧下さい
【石鏃】石の矢じり
【石槍】槍の穂先
【石匙】つまみの付いたナイフ(握り易いように加工されている)、腰に携帯したらしい、いわば万能ナイフ
【石錐】石の「ドリル」
【石箆】石の箆(へら)、 削ったり掻き取ったりする用途に使ったと考えられている
【削器】そいだり、削るために使われたと考えられる
【磨製石斧】木を切ったり、加工する道具
【敲磨器類(こうまきるい)】 ・・・たたいたり磨いたりするのに使う道具
【石錘(せきすい) 】・・・石のおもり 、魚網の錘に使われた
【石皿・台石類(いしざら・だいいしるい)】 ・・・食料をすりつぶす道具
【砥石(といし)】
【擦切具(すりきりぐ)】 ・・・石斧等を作るのに使う道具(いわば旋盤の役目をする石器)
【半円状扁平打製石器】・・・用途不明だが円筒土器文化の特徴的な石器
【抉(えぐり)入扁平磨製石器 】・・・用途不明だが円筒土器文化の特徴的な石器の破片
【石棒】・・・まつりに使ったと考えられる道具
【石冠(せっかん)】・・・三角柱の形をしたまつりに使ったと考えられる道具
【異形石器】・・・用途不明だが不思議な形の石器
【装飾品】・・・アクセサリー
投稿者 ryujin : 2008年12月20日 TweetList
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コメント
投稿者 怒るでしかし~ : 2009年1月10日 21:45
”原理主義”とは、先端観念への収束に特化した思想(宗教)だと言えることが分かりました。その前提となる強力な外圧があったんでしょうね。
”イスラム民族”みたいな強力な民族意識ってあるのかな?その辺りが気になりました。
投稿者 ないとう@なんで屋 : 2009年1月11日 02:19
>怒るでしかし~さん
コメントありがとうございます。
そうですね。宗教というものは、神という上位存在を作ることとで、現実の苦しさの原因をそこに押し付けているように感じることが多いです。「神の思し召し」ってやつですかね。
しかし、そういう思考は自分達の日常でも結構ありがちかも。気をつけないと、ですね~。
投稿者 ○ : 2009年1月15日 15:45
>ないとう@なんで屋さん
コメントありがとうございます。
確かに、なぜそこまでイスラム民族(あるいはイスラム社会)にこだわるようになったのか、という点は興味深いところですね。
イスラム原理主義が生まれたという観点であれば、おそらく西欧文明に侵略(?)された歴史を調べれば見えてきそうですね。
イスラム教そのものが持つ民族的意識という問題であれば、イスラム教が出来た当時の社会状況をもう少し調べてみたら分るかも。
追求テーマ、いただきました!ありがとうございます。
投稿者 ○ : 2009年1月15日 15:53
●●原理主義っていうのはなんであれ本来の自分たちに帰れ的な現実否定と復古思想なのでしょうね。なんであれ現実はプラスマイナスの両面からみないといけないと思いますが、現実の可能性を排除してしまうという点で、否定思考の極限だともいえるかもしれませんね。原理主義者にだけはならないように、気をつけましょうね~。