シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第2回~追求の立脚点 |
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2010年08月24日
お盆休み企画番外編~出雲古代史の旅日記
怒るでしかし~です。今日はひさしぶりに「泣けるでしかし~」です。何故かというと夏休みに、出雲古代史ツアーに行って来たのですが、感激のあまり、「泣けるでしかし~」になったという訳です。どこが泣けるポイントだったか・・・まずは、今回の旅行記をお読み下さい。
●「この国を守り続けてきたおおいなる力への感謝」が湧いてきた「出雲大社」
まず、思い立って「出雲大社」へお参りしてきました。「出雲大社」は現在、「平成の御遷宮」を実施中で、なんと屋根の葺き替え工事の模様を建築足場にのぼってみることができたのです。これには建築業界に籍を置くものとして「いかねばなるまい」と血が騒いだのです。ちょうど、神話研究をやりかけていたので、その参考にもと思ったのもあります。
写真は「仮設足場をかけられ、手前に仮拝殿を設置された出雲大社」
そして、解体した大屋根檜皮古材からつくられたお守りを頂きました。
しかし、この屋根以上に感動したのが、建設足場の途中に展示されていた「解体でとりはずされた板材」でした。何が感動したかというとその展示されていた板は「江戸時代の遷宮の時に、当時の大工さんがオオクニヌシの絵を筆書きした跡が残っていた板」だったからです。
わたくし、建築業界の片隅に身をおくものとして、この大工さんの建築にかけた気持ちにいたく感動してしまいました。写真撮影は禁じられていたので、残念ながらみなさんとこの感動を共有することが少し難しいですが、オオクニヌシ信仰というものの大衆的な裾野の広さに敬服し、仮拝殿以上に、深々と拝ませて頂きました。また、この見学通路の途中には、旅日記用のノートが置かれていたのですが、非常に多くの方が書き込まれており、その文章も、心にしみるものが多かったです。自分の願い事をうんぬん、というよりも、「この国を守り続けてきたおおいなる力への感謝」がつづられており、久々に「日本も捨てたもんじゃない」という思いになりました。
それにしても何故、これほどまでにオオクニヌシは大衆的人気がある神なのだろうか?
その謎に光をあててくれたのが「出雲大社」に近接して立つ「島根県立古代出雲歴史博物館」そして梅原猛氏は最新著書「葬られた王朝」でした。
●「縄文」と地続きの「弥生王国」を体現していた「銅剣・銅矛・銅鐸」の放つ力
まず博物館での気付きは、この島根という土地は、縄文時代から、ネットワークの拠点であったということです。以下を参照下さい。
出典:「古代出雲歴史博物館 展示ガイド」P13
このような縄文ネットワークの拠点であった出雲の地にスサノオが新羅からやってきて弥生の王権をつくりだします。出雲が弥生文化の揺籃の地となったのは、出雲の三瓶山の大噴火によって、出雲平野が開かれたことが大きかったようです。
リンク
尚、三瓶山小豆原埋没林は出雲の三瓶山の大噴火によって森林が埋もれて平野ができたことを証明しています。
またこのことは出雲の「国つくり神話」としても現在に伝えられていますが、国引き神話において、北陸から土地を引っ張ってきたとあるのは、この時に、「翡翠の勾玉の女王の国=越の国」とつながったことを意味し、その後、出雲は勾玉の製造拠点ともなったのです。(有名な「玉造温泉」はこの「勾玉工場」にちなんだ地名です)この「出雲の国」と「越の国」の結びつきは、オオクニヌシ神話における「ヌナカワヒメ」との結婚としても語られています。そしてオオクニヌシの影響圏は、中国、四国、近畿圏、関東や北海道にまで広がっていきました。その影響は、出雲の勾玉が広範囲に広がっているという考古学的事実からも証明されています。「翡翠の勾玉の女王の国=越の国」は、縄文時代からつづく勾玉信仰拠点であり、出雲は「越の国」と婚姻関係を結ぶことで一気にその力を認められていくことになったのでしょう。
上記は、縄文から弥生時代にかけて「越の国(姫川)」産の勾玉が全国に広がったことを示す。出典はサイト「福井県文書館」より
上記は、古墳時代「出雲」産の勾玉が全国に広がったことを示す。出典は出典:「古代出雲歴史博物館 展示ガイド」P27
そしてこの豊かな出雲平野が、一大水田地帯として、栄えたであろうことを今に伝えてくれるのが、水田風景が刻まれた銅鐸です。銅鐸は朝鮮における馬につける鈴が祭祀用に大型化していったものとされていますが、銅鐸の最大の謎は、何故、埋められたのか?です。
写真は展示風景(古代出雲歴史博物館HPより)
梅原猛氏は最新著書「葬られた王朝」において、この「埋められた銅剣、銅鐸、銅矛」を「縄文以来の埋葬文化」であるとします。要点のみを書くと
土偶は死んだ妊婦を弔うものとして埋葬されたものらしい。
リンク
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土偶を割って埋葬するのは、縄文的あの世観のあらわれ(死後の世界は不完全なものが完全、不完全な状態にすることで、あの世へ行き、そしてまた戻って来れる。そうやって、この世とあの世は循環している)荒神谷の銅剣、銅鐸に×を刻み付けてあるのも縄文の死生観を引きずっているためである。
写真の「×」に注目
その後、王の不老不死を祈る埋葬様式が伝来し、石槨木棺墓や防腐剤として朱(水銀)が使われるようになるが、死生観や自然観という点では弥生人の思考には縄文と連続した部分も色濃くあったことが伺われるのです。
私はこの梅原説は、博物館の見学の後に読んだのですが、博物館でみた銅剣、銅矛、銅鐸には、いたく感動し、出雲大社でオオクニヌシが書かれた板材を見たのと同じような深い感動を持ちました。弥生の祭祀具とされる、「銅剣、銅矛、銅鐸」は決して、王の権威を誇示するものというよりも、みなの祈りの結晶物、という印象が強くわいてきました。あるいは「銅剣、銅矛、銅鐸」に記された動物たちや水田風景が村の人々の結束を物語っているようでもありました。そこには、縄文の姫、ヌナカワヒメと結ばれたオオクニヌシの包容力を感じました。
勿論、ヤマタノオロチ伝説にあるように、スサノオが蛇信仰を持っていた現地民と対立したことは確かであろうが、その大蛇から出てきた剣を大切に守り続けるところに、日本神話のやさしさがあります。また、オオクニヌシとヌナカワヒメの結婚もスムーズだったとは言いがたいことは神話からも伺えるが、その交渉の様を赤裸々に残しているところに、オオクニヌシの人間味が感じられる。不思議なことに、出雲神話は、征服された側を徹底的に悪し様に書くようなことをあまりしませんし、支配する側の王すらも非常に人間くさく書かれているところに、面白さがあります。そうした縄文と地続きな弥生の王権のありようが、オオクニヌシ信仰の大衆性の基盤であり、それがわたしの心をも突き動かしているのではないかと感じました。
縄文と弥生は不連続もありながら連続も多くあったのだ、ということを実感した、今回の出雲古代ツアーでした。
投稿者 staff : 2010年08月24日 TweetList
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コメント
投稿者 にほん民族解放戦線^o^ : 2010年12月29日 16:26
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