日本人の起源8 「倭人」とは華南の「越人」のことである |
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2010年11月27日
日本人の起源9 倭国大乱からはじまる同類闘争圧力の上昇
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まぼろしの倭国大乱ーー『三国志』と『後漢書』の間
弥生後期から奈良平安時代にかけての日本史は、中国・朝鮮とのかかわりが非常に強い。
時代としては、AD50年:「倭の奴国王」の印綬を授けられたといわれるところから、900年:菅原道真が遣唐使を中止するまでの期間、ちょうど平家が登場する前の時代にあたる。
(学校ではここまでを古代と分類し、以降秀吉の天下統一までを中世と呼んでいる)
00年 小国の分立と邪馬台国連合
250年 古墳の出現とヤマト政権
600年 最初の遣隋使
663年 白村江の戦い
642年 大化の改新
700年 大宝律令と官僚制
720年 藤原氏の進出
770年 平安京の確立
894年 遣唐使を廃止
930年 地方の反乱と武士の成長
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・
などが歴史のトピックとしてあげられる。
これ以外にも、飛鳥文化、白鳳文化など、中国・朝鮮の影響を強く受けた文化が花開き、仏教の伝来、神社の発展など、あきらかにそれまでの縄文・弥生文化とは異なる文化・信仰が広く浸透してく時代である。
鎌倉時代以降は、武士同士の争いが歴史の中心になっていくが、この1,000年間の大陸との交流の歴史は日本人の形成にどんな影響を与えたのだろうか?
今回はこの時代のさきがけとなった、 「倭国大乱」 をかんがえてみたい。
※倭国大乱とは、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱であり、中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。
ウィキペディア
この時代の史実は、中国史書、「漢書」地理史/「後漢書」東夷伝/「魏志」倭人伝(いずれもおよそ00年~200年の書)に基づくものが中心で、日本の史書である、古事記・日本書紀(720年)が執筆される500年前の記述からその時代の日本を推測することになる。
この中国の史書であることがミソで、邪馬台国・卑弥呼にまつわる伝説は、いまだ定説が定かにならない。
邪馬台国がどこにあったのか?はいったん棚上げにして、この時代中国・朝鮮からの影響を強く受けたと考えられる九州(邪馬台国)の勢力が古墳・ヤマト朝廷にどのように伝播していったのか?、そして武力闘争の緊張がどのように日本に広がっていったのか?を考えてみたい。
◆人口のピークと天候不順が倭国大乱を引き起こした
想定される古代日本史のバックボーン より引用
弥生後期の半ば、AD100年頃を過ぎると地球は寒冷期のサイクルに入り、特にAD150年頃から一転して天候不順に度々襲われるようになった模様である。
この時期の気候変動は、全世界的に見ても人類の歴史に大きな影響を与えたと考えられる。
特に東アジア一帯でその影響は大きく、中国においても、漢代末から三国時代にかけ、人口の激減を招いた。
一説には、後漢初期6000万人いた人口が、三国時代にはその1/10の600万人にまで減っていたそうである。
戦乱により人口が減少したとの見方も出来ようが、その戦乱が起こった大元の原因は、やはり、天候不順~飢饉の頻発~難民の発生~社会不安~戦乱勃発というスパイラルであった訳である。
日本においては、特に北九州は、冷害や旱魃の被害の比較的よく発生する地域であり、この地を中心とした弥生稲作文化に、多大な影響を及ぼしたと考えられる。
後の江戸期において、福岡県の雄藩であった黒田藩の記録でも、その260年間で4回の大飢饉が記されており、最も凶作の年には、米の収量が平年の1/4にまで落ち込んだそうである。
ただそれ以前に(BC500年頃?)既に稲の『早稲品種』が見出され、その普及により水稲の北限が一気に北上したという流れもあった。
しかしその事により稲作への依存率が高くなっていた事が逆の作用を及ぼし、天候不順のもたらした社会への影響は、大変大きかったと推定される。
グラフ 1 弥生期 ~ 平安期までの 平均気温推移
『倭国大乱』は、まさにこうした自然要因と社会要因に引き起こされたと考えられるのである。
天候が安定している時期においては、食糧の備蓄は、さほど考えないのが常である。
若し、急激な天候不順に見舞われ、極端な不作が2~3年も続けば、稲作に食料の相当の部分を依存していた当時の弥生小国家は、その存亡の危機に見舞われる事となる。
そのときの人間のとったであろう行動は、容易に推察できる。
先ず、他の国の食料を奪う事であり、これが全面的な倭国内の戦乱に発展してゆく。
その戦乱の過程で、小さな国は、より大きな国に統合されていった。
前漢の中国の書には、倭は100国ほどあったと記されており、それが卑弥呼の時代には30国程度にまで纏められていたのである。
しかし、この時点では、倭の各国が武力で一つに統一される事は無かった。
この倭国大乱は数十年続いたあと、連合国家として取り敢えず内乱の決着を見た。
(本能寺の変直前で、各戦国大名が連合政権を作ったようなものと考えれば理解しやすい)
これにはやはり、倭国内部の要因の他に、大きな外部要因も関係していた、とも読み取れるのである。
実はその最大の要因とは、先述した、軍事大国『魏』の脅威に他ならないのではないか。
半島から日本本土まで根こそぎ侵略される脅威に対し、倭国『連合』として一致団結し、『柔』は朝貢し、『硬』は連合して、柔硬用の態度で、小異を捨てて事に当たるしか道は無い、と当時の人達は感じていたと考えられる。
◆倭国大乱の中でのもう一つの動き
想定される古代日本史のバックボーンより引用
そして、もう一つの大きな動きとは、余り天候不順の影響を受けていない、日本国内の他の地域への 『大規模な移住』 が行われたと想定される。先述の如く、当時の人々は、今我々が考えているより遥かに多くの地理情報を持っていたと推定され、北九州より近畿地方の方が、より冷害や旱魃の被害が少ないことが認識されていた場合、この時期、大規模な北九州から近畿への移住が行われた、と想定できる。
北九州の一地方の地名と畿内大和の地名の一致は、この時期に行われた『民族大移動』の結果なのである。
イギリスの『ヨーク』『オーリンズ』『ジャージー』の人達がアメリカ大陸に『ニューヨーク』『ニューオリンズ』『ニュージャージー』を建設したのと同様である。
即ち、本来の『ヤマト』は北九州にあり、畿内大和は、実は『ニューヤマト』なのである。
※ざっくり要約するれば、
寒冷化→食料危機 →略奪→ただし一方では魏に対して連合
→一部は東(近畿)へ移動
という流れになる。
この説を裏付ける事象として、高地性集落の分布が瀬戸内海に集中していることがあげられる。
◆高地性集落とは
高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。しかし、高地性遺跡からも同時期の平地の遺跡とほぼ同じ内容の遺物が見つかっており単なる監視所・のろし台といったものではなく、かなりの期間、住居を構えた場所だったことも分かってきている。
集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。 つまり、畿内を中心とした地域で進められていた統合・連合への動きであった。豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。 さらに、弥生中期~後期という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方。他にも神武東征に象徴される九州勢力の東進に対する備えと見る説もある。
ウィキペディア
画像(地図)
画像(写真)
※この高地性集落の史実は、緊張状態の高まりがあったことを物語る。これに続く古墳時代も、だれがどのような目的であのような巨大な古墳を築造したのか?という謎はいまなお残っている。
(あのような巨大古墳は大陸にも存在せず日本固有のものらしい)
※そしてヤマト朝廷(3世紀)の成立とこれに続く大陸文化(飛鳥文化)の伝来でも、中国・朝鮮との関連の深さが注目される。
ただしその当時の中国・朝鮮も単一の文化ではなく、様々な文化が日本に入っていく。
例えば飛鳥文化を象徴する仏像も、
・北魏様式…高句麗経由で伝播。男性的で端厳、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇、左右対称の幾何学衣文を特徴とする。
・南梁様式(南朝様式)…新羅・百済経由で伝播。長身で丸味があり、変化のある衣の線、アルカイク・スマイルが特徴。
では明らかにその表情が異なる。
※男原理と女原理、変異と安定、さらには縄文気質と大陸文化など、異なる2つの要素が塗重なるように日本人を形成していった。
こんな複数の視点で日本人の起源を追求してみるものおもしろいとおもいました。
投稿者 chai-nom : 2010年11月27日 TweetList
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コメント
投稿者 五節句 : 2011年4月3日 12:42
日本人の縄文的精神性がどんどん薄れていたこの時代に、
今回の災害が奇しくも縄文人の本拠地東北地方発だったことは偶然とはいえ自然の力が日本人に大きなメッセージを贈っているように思います。
きっとこれを機に日本は大きく変化するであろうし、逆にこの機会を逃せばもう変わる事はないようにも思います。
助け合う、話し合う、どうするかをみんなで考える。この超大国日本にまで成長した縄文的集団はこの災害を前にどのように動いていくか、動くべきか考え始めています。
その中で一番浮いているのが政治であり、マスコミだと思います。しかしそれに対して暴動も起こさず、淡々と自分たちでできることを少しずつやっていく、一人一人が何をすべきかを認識している万能細胞と呼ばれる日本人はきっとそのように復興を始めていくのだと思います。
五節句さんのコメントもとても心温まるものでした。
投稿者 tano : 2011年4月3日 15:56
縄文ブログ会員の方にお願いです。
このブログには現在50名近い会員がいます。
その中には東北地方の方もいらっしゃるし、関西や関東の方もおられます。また遠くアメリカに居住されている方やアフリカでお仕事をされている方もおられます。
日頃、読者として参加されているこれらの方にもぜひ、さまざな地域で起きている声や情報をこのブログにコメントいただけるとありがたいと思います。
よろしくお願いします。
管理人 田野
投稿者 管理人 : 2011年4月3日 16:10
五節句さん、tanoさん、ありがとうございます。
東北人の厚い人情、強い心、
長い間中央から冷遇されてきた歴史が東北人のメンタリティー形成に深く関与しているのではないかと、内田樹氏が言われていました。
中央を殊更批判するわけでもなく、また過度に期待するわけでもなく、ただひたすら現実を直視して自分たちの力で日常を取り戻そうとしているように思えます。
>きっとこれを機に日本は大きく変化するであろうし、逆にこの機会を逃せばもう変わる事はないようにも思います。
まったく同感です。
大災害を契機にしなければ変われないというのは、なんとも歯がゆくて心の痛むことですが、いま日本中で湧き上がっている本源の心こそ日本が守っていかなくてはならない、そして変えていかなくてはならないと思っています。
投稿者 nishipa : 2011年4月5日 19:58
大和民族の大移動、これを裏づけて気候変動、北魏の圧力に着眼したのは卓見でしょう。
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2014年12月12日 13:37
16年前の阪神大地震の折に、家や家族を失った被災者を、東北の何処かの県が受け入れを申し出て、その時のことばに、‘東北の厚い人情を 今こそ見せて役立たせたい ー ー’、という風なニュアンスのものがあったことを、頭の隅に憶えています。
(今回は、あの時のお返しに ー ー 、と、神戸や大阪から、被災地支援が集まっていましたが)。
私が印象深く感じたのは、‘東北人の厚い人情’ ということばです。
県民性は夫々あるものですが、東北の人が、自らを厚い人情を持っている と自覚していたとは、それを聞いたその時に、へえ~っ!、と思ったのです。
私個人は、日本から、その厚い人情を持った人々がこの度、沢山、一遍にいなくなってしまった、と、実は思っていました。
太古の昔から、大規模な気候変動や天災によって、生命や国や文化が滅亡していった、ということがあったと思います。
何が残り、何が変わって行くかは、これからの時をみなければ分からないことですけれど、‘縄文’ を直截に継承するところ、東日本が、その真髄を変えることなく復興していけたとしたら、それに過ぎる幸運は無いと、私は思います。