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2008年09月15日

日本人の起源:“倭人”のルーツは中国大陸の呉・越

日本の教科書で、“”といえば古代日本を指すものだと教えられて、なんとなくモヤモヤしながらもそのまま信じていたのですが、どうもそれは誤りというか違うということがわかってきました。倭人のルーツは中国大陸、そして朝鮮半島にあったのです!
さーねさんの長江文明崩壊の時⇒日本へ渡来?!  の続きです。

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倭人(倭族)とは、中国は華南の「越」人を指し、その越人が海伝いに朝鮮半島や日本列島にやってきたというのがより正確な史実のようです。
古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン より
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次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。
 彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。
 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。
 「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。
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(引用以上)
さらに中国大陸の状況を詳しく見ると
倭人の起源 より
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後漢の王充の著した「論衡」に、「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢(鬯)を貢す。」、「周時、天下太平にして、越裳、白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」とある。この記述は倭人に関する現在知られている最も古い伝承である。この記述のなかの「越常と倭人」は、鳥越憲三郎氏によれば、「四川省の倭人である蜀の国(劉備の時代の蜀ではない)は薬草の暢を献上し、南方の越裳、つまり(南)越の国も白い雉を贈ってきたことを述べたものである。」(「古代中国と倭族」中公新書)として、列島の倭人でないことを明らかにしている。鳥越憲三郎氏は倭人を「倭族」という大きな概念として捉え、そして越と倭は同音で越人は列島に渡来した倭人と同源とみている。
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越王句践は紀元前473年に呉王夫差を滅ぼした。そしてさらに北上して山東半島の付け根の琅邪山に都を移し、紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるまで越の都となった。越王句践が琅邪に都を移したのは、呉人を琅邪に追って来た結果であって、最初から意識して都したものではないだろう。ここから朝鮮半島や日本列島に渡ることは航海が上手な越人にとっては、それほどの困難ではなかったであろう。越は紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるが、この前後つまり、呉と越の戦いから越が呉を滅ぼし、楚が越を滅ぼした間に、多くの民が流民となって各地へ渡っていった。go_etu_tokai2.jpg
これら呉人・越人は「栽培イネ」と「高床式の住居」という住まいの文化・食の文化を携えて列島に渡ったとみる。呉人・越人は鳥越憲三郎氏のいう「倭族」であり、もともとは江南地方沿岸に住んでいた、断髪・文身(いれずみ)の「倭族」に共通した習俗をもつ長江文明を享受した民であった。黄河文明をもつ大陸中原の民族からみると異質な民族と見えたに違いない。
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(引用以上)
いままで、遅れて国家を作ったはずの日本が、朝鮮半島に任那日本府とかの領土があるって変だな思っていたのですが、このように逆に倭人のルーツが大陸と朝鮮半島にあったと考えるとすっきりすると思う。
こうして日本人の起源を捉え直すと、
倭人とは中国の南方から海伝いに朝鮮半島、そして日本列島に広く分布していた。
韓人(朝鮮半島の倭人)はその後、北方から侵入してきたツングース系の遊牧民族と混交し、現代の朝鮮人となった。
日本列島では、それまで住んでいた縄文人(これも南方系+一部北方モンゴロイドの混交)と倭人が混交し、さらにその後、古墳時代以降に朝鮮経由でやってきた北方系の部族も混じって現在の日本人が形成された。
これらは、現在の日本人の地域による多様性にもくっきり残っています。近畿・瀬戸内には朝鮮半島に近い人種的特徴を持ち、九州や東北など列島の端に行くほど縄文(弥生も?)の人種的特徴を残している。
さらに追求していきたいのは、日本人の支配層をなした朝鮮半島からの渡来部族と日本におけるその後の動きです。江南人や騎馬民族や秦氏など多くの渡来部族が弥生時代~奈良時代にかけて渡来してきています。これも東アジア・朝鮮半島の動向と刷り合わせながら詳細に押さえていく必要があるようです。
(by Hiroshi)

投稿者 ihiro : 2008年09月15日 List  

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コメント

傑作です、ランクリ二回、リンク、ブックマーク
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/tetunomiti.html
またまいります。

投稿者 Kawakatu : 2008年11月1日 04:59

>天智天皇と天武天皇が兄弟でなければ、正当な王位継承者である大友皇子が出家している大海人(天武天皇)暗殺を企てるのは納得いきます
なんでやねん?
「闇のブローカーが正統者の暗殺を企む」ならわかるけど、村田さんが書かれているのは、逆ちゃいまっか?大友=正統者が、わざわざ闇人間の暗殺をたくらみまっか?
ようわからん。
求ム、解説。

投稿者 大阪人 : 2008年11月1日 21:43

ちょっと疑問がありました。
>一方、唐は新羅に対抗すべく日本(倭国)との連携を目論み670年頃から使者を送っていますが、日本(天智天皇)は武器を与えただけで追い返してしまいます。
天智天皇はなぜ唐を追い返したのでしょうか?
反新羅の立場である天智天皇にとって親唐戦略はとるべき戦略ではなかったのでしょうか?
その上で
>つまり、壬申の乱とは「新羅と唐の代理戦争」であった側面が強いようです。
壬申の乱は基本的には百済系天智vs新羅系天武の争いだと思いますが、なぜ新羅と唐の代理戦争になるのでしょう?
ここは村田さんの分析を教えていただきたいと思います。

投稿者 案山子 : 2008年11月1日 22:56

大阪人さん、ご指摘ありがとうございます。
言葉足らずの内容で誤解を招いてしまいすみません。
以下のように本文を修正を行いました。
(旧)
>天智天皇と天武天皇が兄弟でなければ、正当な王位継承者である大友皇子が出家している大海人(天武天皇)暗殺を企てるのは納得いきますし、そもそも出家したこと自体も捏造であった可能性すらあります。
(新)
以上のことから天智天皇と天武天皇は兄弟ではなく、天武天皇出自は白村江の戦い以降に新羅(?)から来た高官であったと思われます。
そして、天智の実の娘が4人も天武に嫁いでいることからも、天智天皇は新羅系の天武天皇を恐れていたことが伺えます。それは天智天皇亡き後、大友皇子になっても同様であったと思われます。
ですから、出家したのちの大海人(天武天皇)暗殺を企てるのは納得いきますし、そもそも出家したこと自体も捏造であった可能性すらあります。
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今後もご指摘などよろしくお願います。

投稿者 yoriya : 2008年11月8日 20:51

案山子さん、コメントありがとうございます。
>天智天皇はなぜ唐を追い返したのでしょうか?
唐の使者は新羅の百済征服を抑止するよう協力を求めてきたと思われますが、白村江の戦いで大敗した天智天皇にはそれに応える戦力がなかったか、または、新羅討伐のために唐に加担すると国内の勢力を増してきた新羅派の反感を与えると思ったのではないでしょうか。
>壬申の乱は基本的には百済系天智vs新羅系天武の争いだと思いますが、なぜ新羅と唐の代理戦争になるのでしょう?
新羅と唐の代理戦争と表現したのは、壬申の乱の結果として、20年余りにわたって遣新羅使は8回も行なわれているが、遣唐使は30年間も行なわれていかなったことや、唐が新羅の百済征服を抑止する動きをしてきたことなどからです。
しかし、国内に目を向けた場合には、ご指摘の通り、新羅と百済の代理戦争といった方が真っ当な見方であったと思います。
本文を修正しましたので、またご覧ください。
今後もご指摘よろしくお願います。

投稿者 yoriya : 2008年11月8日 21:19

Kawakatuさん
コメントありごうございます。
復活版 かわかつワールド!!に伺いました。
内容が詳しすぎて片手間では難しいのですが、
今後、すっくり拝見します。
よろしくお願いします。

投稿者 yoriya : 2008年11月8日 22:09

壬申の乱は、本当にいろいろの味方がありますね。アタックする上で、いくつかのポイントがあります。古事記の序文には、壬申の乱のことが書かれているのに、本文には、天武天皇のことが書かれていません。一方、日本書紀の方は、壬申の乱用に、スペースが倍も使われています。
 書いておられますが、白村江の戦いは、大いに関係があったように思われます。
 私も解明に挑戦しました。結論は、
戦いは、唐と日本との戦いです。日本は、大友皇子と大海女王子合同作戦です。大友皇子の周りには、中国からやってきた漢人をはじめとして、唐にやられた百済人もいましたから、大友皇子は苦労しました。
 よろしかったら、読んでください。
壬申の乱(1) 日本の歴史の不思議
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/820156/

投稿者 skeikas : 2008年12月15日 19:20

skeikasさん
コメントありがとうございます。
他の事象や時代背景なども加味しながらまとめたのですが、まだまだ勉強不足で、整合性が取れていないところもあったと思いますが、今後とも追求していくのでよろしくお願いします。
早速、壬申の乱(1)から(9)まで目を通させて頂きます。
レスが遅くなり申し訳ありません。

投稿者 yoriya : 2008年12月19日 05:41

「天武天皇と天智天皇は兄弟では無い」正解です。
扶余王族系は、崇神、垂仁、景行、仲哀、清寧、用明、崇峻、孝徳、聖徳、推古、皇極、斉明、天武。
扶余同族の国は高句麗、新羅、加羅です。
百済王族系は、扶余が傀儡の王をしていた土地で、王位を譲り受け扶余王族を名乗り土着民の理解を得ていました。
烏垣直系百済王族系は・・・
応神、継体、欽明、敏達、舒明、天智。
天武天皇(倭建)の父は、聖徳(倭聖)で、父祖は崇峻(倭峻)、曽祖父は用明(倭明)です。
聖徳は、621年舒明と戦い物部守屋(物多治見)将軍を失い
(大聖勝軍寺の像)622年皇極(倭佐富、佐富女王)との間に出来た子建を見る事無く舒明(倭舒)に毒殺されます。
蘇我入鹿(鞍作毛人)は、舒明死後、建に娘庄子を与え擁立しますが、中臣鎌足(百済翹岐)に法興寺に向かう途上道端で暗殺され建は即位を断念する経緯があります。

投稿者 邇波言壱 : 2012年6月12日 17:38

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