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2009年03月15日
日本支配層の系譜2 半島における倭国大乱→侵略部族が列島に舞い降りる
歴史上古代国家の形成期には、部族連合同士が総力戦でぶつかり合い、殺し合う激しい闘争過程を通じて、勝ち残った氏族・部族が、負けた部族を支配・従属させることによって国家を形成する。
古代中国、そしてお隣の朝鮮でもその過程は明確に存在した。特に古代朝鮮で、部族連合・小国家を形成していた馬韓・弁韓・辰韓が国家(百済、新羅)を形成する過程は激しい闘争があったと見られる。
(※注:これが当時朝鮮に主力があった倭人勢力の倭国大乱。その際に半島の戦乱からはじきだされるようにして、大量の武装侵略部族が日本にやってくる。)
●日本に舞い降りた侵略部族(後の支配部族)
朝鮮半島で倭国大乱が起こっていた、2世紀末、突如として日本各地に巨大な古墳ができ始める。
上記図版は、『王権誕生』より
これは、朝鮮半島における当時の倭国(部族連合状態だった馬韓、弁韓、辰韓)の激しい戦闘から逃れてきた部族(注:当時の先端兵器で武装した集団)が、日本各地に割拠した証でもある。方丘墓、円丘墓、四隅突出形方丘墓・・・と多様な墳墓の形式や土器が見られるのは、朝鮮半島から様々な由来を持つ武装部族が渡来し、その勢力圏を形成したことを示している。
※ここでは、“倭国”は朝鮮半島にあった考えている。“倭”とは中国から見た呼称であり、未だ国家形成にいたっていない部族連合レベルの段階の一定の部族集団を指して“倭”と呼んでいる。そのために朝鮮半島にあった“倭国”である馬韓、辰韓が、それぞれ百済・新羅という国家に変貌すると“倭”とはよばれなくなり、未だ部族連合の途上にある加羅や列島の勢力が“倭”と呼ばれるようになる。
※実際、倭国大乱の2世紀後半、日本列島においては、大規模な戦乱に見舞われた痕跡は殆どないと言われており(『王権誕生』P238参照)、当時中国の呼ぶ倭国が朝鮮半島にあり、倭国大乱により、そこからの亡命部族が日本にやってきて巨大古墳を築いた勢力となったと考えたほうが事実が整合してくる。
こうして当時列島弥生時代で各地に小規模な環濠集落を営んでいたところに、突如としてに巨大古墳を持つ武装小国家群(出雲、吉備、東海、九州)が出現する。
しかも、戦闘跡がほとんどないということは、圧倒的な武力でもって短期間に制圧したと見られる。
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(by Hiroshi)
投稿者 ihiro : 2009年03月15日 TweetList
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コメント
投稿者 新しい「農」のかたち : 2010年7月22日 23:47
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こんばんは :D 梅雨 があけ、強烈な暑さ が続いていますね …