2009年3月17日

2009年03月17日

四隅突出型方墳の示唆すること【高句麗・新羅→出雲→東国のつながり】

古墳というと前方後円墳、前方後方墳をイメージされる方が多いと思われますが、その中でも四隅突出型方墳は、半島や出雲との関係を紐解く上では、極めて重要な意味を持っているようです。
 高句麗から出雲および東国へ 引用、一部編集させていただきました

出雲(島根県)の古墳で注意をひくのは、方系墳の分布が濃厚であることだ。前方後円墳や円墳もあるが、方墳、前方後方墳の数は全国最多となっている。
しかも出雲の方系墳は古墳時代のはじめから終末期まで、出雲東部で根強く生きつづけて、出雲における古墳文化の伝統を特色づけてやまない。1973年(昭和48)のころには、出雲の古墳545基のうち、方墳は111基、前方後方墳は17基とされていたが、最近の調査によれば、それをはるかに上まわって、方墳は約250基、前方後方墳は約30基ぐらいにも及ぶという。

出雲の方墳のなかで、その初期に出現するものに、方形の四隅に突出部のある、いわゆる四隅突出型の墳丘墓がある。出雲を中心に、因幡、伯耆、石見、出雲よりの備後・安芸にある。方形台状墓や方形周溝墓とはおもむきを異にし、古墳のすそに立形の列石や敷石遺構がめぐらされ、斜面に貼り石がある。なぜ、こうした四隅突出型方墳が出雲に突如として登場してくるのか。なぜ、方系墳が出雲東部に集中的に存在するのか。そこには今後の検討課題に待たねばならぬいくつかの課題がひそむが、大陸の方系墳とのつながりも考慮に値しよう。とりわけ高句麗などの古墳(たとえば蓮舞里二号墳など)との比較と吟味が必要となろう。

(日本において)四隅突出型古墳の発見が戦後、重要な意味をもったのは、大和に古墳が造られる以前、つまり弥生時代に、前方後円墳とまったく違うかたちの古墳が存在していたことがわかったからなのである。つまり、少なくとも古墳について、大和朝廷の勢力の進展に伴って日本列島の各地に古墳が造営されるようになったという、それまでの定説的な考え方の図式が、四隅突出型古墳の出現によって崩れたのである。そして、今回の雲坪里でみたように、日本海沿岸地域に限られていた四隅突出型古墳に類似する古墳が鴨緑江のほとりにもあったことで、より問題がふくらんだのである。しかもその雲坪里には、前方後円型と四隅突出型という、日本の古墳につながる二つの大きな要素が共存している。

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(さらに…)

投稿者 naoto : 2009年03月17日  



 
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