2009年3月31日

2009年03月31日

武蔵野台地を切り開いた亡命王族「高麗若行」

武蔵国には既に紀元前250年以降に信濃方面、そしてまた甲斐方面から出雲系氏族が進出してきていました。また、それ以前から西部の山岳地帯の落葉広葉樹林帯には縄文の狩猟採集民たちが多く暮らしていたと思われます。そんな彼らの力では、太刀打ちできなかったのが武蔵野台地の開拓でした。ここを切り開くためには、最先端の灌漑技術が必要だったのです。この技術を提供したのが、半島からの亡命氏族だったのです。    
     武蔵野台地 (引用させていただきました)

大和王権は7世紀半ば以降、それまでの朝鮮半島重視の西向き政策を改めて、それまであまり重視していなかった関東や東北方面への進出を重視する政策にシフトしていくようになり、663年に白村江の戦いで大敗して朝鮮半島での基盤を全く失うとそうした傾向は本格化して、670年には国号をそれまでの「倭国」から「日本」に改めて、それまで大和王権側が蝦夷の支配する異国として「日本(ひのもと)」と呼称してきた関東や東北をも包含した新しい「日本国」として再出発する方向性を示しました。

その方針を実行するためには、今まで「むさし国」などと言って開発を敬遠していた武蔵国の開発にも本格的に取り組まなければいけません。しかし、この頃ピークを迎えていた地球寒冷化の影響で江戸湾の海岸線がいくらか後退して、また河川の運んでくる土砂の堆積も増えて、以前よりはいくらか低湿地帯の開発も容易にはなっていましたが、相変わらず開発の困難な地域でした。そこで新生日本国の朝廷は、この武蔵国をはじめとした関東の未開発地域の開拓に、シナ大陸の最新の灌漑技術を有した朝鮮半島からの亡命氏族をもって当たらせることにしたのです。

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投稿者 naoto : 2009年03月31日