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武蔵野台地を切り開いた亡命王族「高麗若行」

武蔵国には既に紀元前250年以降に信濃方面、そしてまた甲斐方面から出雲系氏族が進出してきていました。また、それ以前から西部の山岳地帯の落葉広葉樹林帯には縄文の狩猟採集民たちが多く暮らしていたと思われます。そんな彼らの力では、太刀打ちできなかったのが武蔵野台地の開拓でした。ここを切り開くためには、最先端の灌漑技術が必要だったのです。この技術を提供したのが、半島からの亡命氏族だったのです。    
     武蔵野台地  [1](引用させていただきました)

大和王権は7世紀半ば以降、それまでの朝鮮半島重視の西向き政策を改めて、それまであまり重視していなかった関東や東北方面への進出を重視する政策にシフトしていくようになり、663年に白村江の戦いで大敗して朝鮮半島での基盤を全く失うとそうした傾向は本格化して、670年には国号をそれまでの「倭国」から「日本」に改めて、それまで大和王権側が蝦夷の支配する異国として「日本(ひのもと)」と呼称してきた関東や東北をも包含した新しい「日本国」として再出発する方向性を示しました。

その方針を実行するためには、今まで「むさし国」などと言って開発を敬遠していた武蔵国の開発にも本格的に取り組まなければいけません。しかし、この頃ピークを迎えていた地球寒冷化の影響で江戸湾の海岸線がいくらか後退して、また河川の運んでくる土砂の堆積も増えて、以前よりはいくらか低湿地帯の開発も容易にはなっていましたが、相変わらず開発の困難な地域でした。そこで新生日本国の朝廷は、この武蔵国をはじめとした関東の未開発地域の開拓に、シナ大陸の最新の灌漑技術を有した朝鮮半島からの亡命氏族をもって当たらせることにしたのです。

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朝鮮半島では唐と新羅が連合して663年に百済を滅ぼし、668年に高句麗が滅ぼされていました。そして百済に加担した日本も、朝鮮半島からその勢力を駆逐されてしまいました。これによって朝鮮半島では百済人や高句麗人、倭人は迫害されるようになり、その上、朝鮮半島で今度は唐と新羅が争いを始めたりしたので、多くの亡命民が日本列島へ逃れてきました。この亡命民には百済人や高句麗人はもちろん、多くの朝鮮半島で生活していた倭人も含まれていたであろうし、半島の混乱に伴った勢力争いに敗れた新羅人も幾らか含まれていたことでしょう。そして百済人にせよ高句麗人にせよ新羅人にせよ倭人にせよ、彼らの多くの実態は食い詰めた被支配階級の土着人ではなく、華僑と縁戚関係を持った支配階級であったと思われます。敗戦や戦乱の中で半島で迫害され追い出されたのは敗亡側におけるそうした支配層であったであろうし、船を仕立てて日本列島へ逃げてくるのはそれなりの地位や実力がある者であるということでした。

そうしたエリート階層であればこそ、シナ大陸の最新の灌漑技術や土木技術にも通じていたであろうと思われ、また、そうした実力は有していながらも彼ら亡命民は、百済系や高句麗系、新羅系はもちろん、半島出身の倭人系も含めて、既存の「倭国」の内部においては全く生活基盤や勢力圏を持っていなかったのです。「倭国」には「倭国」の既存の支配層が存在し、倭国の中の土地も財産も既に占有されており、彼ら新参の亡命氏族には食い込む余地はほとんど無かったのです。

そこで彼らは生きていくために「倭国」以外の新天地を開拓していかなければいけないわけです。幸い、その使命を遂行するだけの技術や実力は持っていました。そしてそうした彼らの状況を日本国の朝廷は理解し、悪く言えば利用し、お互い利害が一致した形で、朝廷は彼ら亡命民に新天地である関東地方の開拓を命じたのです。つまり、7世紀後半における日本国の東方開拓熱というのは、朝廷の方針という側面もあるのですが、朝鮮半島からの亡命民を大量に受け入れたことによる自然必然の流れであったという側面もあったのです。

8世紀初めに高句麗からの亡命民氏族であった高麗若光に朝廷が開拓を命じた地は、当時は不毛の原野であったそうです。高麗若光がその地の開拓を始めると関東各地に散らばっていた高句麗系の亡命民から多くが馳せ参じて協力し、見事に開拓は成功し、住民は高麗若光の功績を称えてこの地を流れる川を「高麗川」と名づけ、彼の死後、彼を祀る神社として高麗川沿いに「高麗神社」が建てられたのです。

高麗若光という人物は高句麗の王族であったとも言われており、相当高い地位の人物であったようです。そういう人物であったからこそ、「高麗郡」というように地名まで賜ることが出来ているのであり、他の身分がそれほど高くない亡命民氏族の開拓した土地の場合はそうした栄誉は必ずしも与えられないことも多かったと思われます。また、日本列島で生きていくに際して、わざわざ百済系や高句麗系と名乗るよりも倭人系であるように振舞うほうが得策であると判断した亡命民も多かったと思われ、わざわざ正直に出自を明かしていたのはよほど由緒のしっかりした貴族や王族出身者だけであったのではないかとも推測されます。

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