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2010年03月22日

王権の生産 4

こんにちは♪milktea です
 前回は、卑弥呼と古墳(前方後円墳)とは、いったい何なの?について考えてみました。
王の正当性を保証する人(卑弥呼)・建造物(古墳)であって、王という存在が絶対性を持つものではないということを示しました。
 今回と次回で、時期は多少被りますが、次の段階での「王権の移行」について考えてみたいと思います。(皇太子制度は飛鳥浄御原令にて成立)
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王の再生産…複数いた王位継承権保持者

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 いわゆる『倭の五王』の時代、宋の冊封を受けた倭国は次第に支配構造を確立し始め、有力な諸勢力も、時に再編成をしながら地位基盤を固めていきました。そして継体~欽明の時代になると、幅の広さはあるものの、王族と呼ばれる一族が確定します。そしてこの王族内部において王位継承が行われるようになり、王族内部において、王位継承の原理が求められるようになってきたのです。
 ここからは、倭国王を大王、この権力基盤をヤマト王朝、首長を豪族と改めて書き進めたいと思います。
 王族という特殊血縁集団が確立した背景には、新たに出来上がった支配システムが大いに関係していました。伴造・部民制がそれにあたります。
* 伴造・部民制とは、列島を「代表」する最高首長としての大王とその一族に対する貢納・奉仕を、日本列島各地の首長配下の諸集団に負担させるまったく新しい支配システムであった。(中略)それぞれ異なった貢納・奉仕内容を負わされた農民集団は、それぞれ貢納・奉仕の内容ごとに各級の首長たちによって統率・管理された。*(遠山美都男著、大化改新より)
 このシステムにより、連合体の中核にあった豪族(有力首長)は大王の臣下の地位を受け入れ配下に徹底させ、大王はこのシステムの頂点において統率する、という地位に立ったことになります。
 この伴造・部民制は…恐ろしく複雑です。理解不能に近い位の超縦割り構造と言っていいでしょう。同じ親から生まれた兄弟であっても、所属する部が違うこともあったようで、そうなると、全く違う集団に属することになるという有様です。物事を進める時、縦割り行政というのは、いつの時代もやっかいな代物です。そして大王には、このシステムの統率・管理をやり遂げられるだけの政務能力が求められることになります。豪族層にしてみれば、「自分達は臣下に下ったのだから、きちんと仕事をしてもらわないと困る」となるのでしょう。すると大王はこの政務を分割して、一部委託することになったようです。そして分割された政務を執り行っていた人物の中から、次期大王が選出されていったようです。もちろんそれは王族内部の人間です。単に子供可愛さから、「我が子に王位を」といった発想は持ち合わせていなかった…むしろ無理な相談でしょう。やはり兄弟(同母兄弟は長子が原則)、従兄弟等の現大王と世代の近い人物がその任にあたることになります。つまり、王位継承権のある人物が、同時期に複数存在するという事になります。それも、現代のように、継承順位が定められていたわけではなく、次期大王になるのは、『その中から最もふさわしいと思われた人物』という曖昧な基準によって決定されていました。
 それでは、その一部政務を補佐したのはどのような人物達なのでしょうか。遠山氏は、独自の家政機関を持つ『大兄』『大后』の称号を与えられた人物が、主にその任に当たったと述べています。
 このように王位継承権を持つ者が同時期に複数いるということは、『断絶』の危機回避になると共に、王族内部の『火種』にもなるわけです。そして、それぞれの王位継承権保持者には、その人物を支持する豪族の存在があります。何とかして自分が、(豪族にとっては支持する人物が)次期大王の地位を獲得しようと、政務に励み、また影では陰謀を張り巡らせて、場合によっては、ライバルを殺害というところまで追い込んでいきます。まさに生き残った者勝ちでした。そして、やるかやられるか、先手を打てるか、後手に回るかの違いだったわけです。その点においては、モラルも何もない状態です。更に最後に勝ち残った者ですら、即位に関しては各豪族間の同意を必用としたようです。最初から大王の地位を保証されていた人物など存在しなかった、というのがこの時点での王族の実態でした。この状態は、初代皇太子の文武まで続くことになります。
 特筆すべきは、比較的資料が充実している推古以後、特に皇太子制度が確立するまでの持統に至るまでの各大王、王位継承権保持者達は、よく仕事をしていたということです。流通の整備・土木・外交等に力を注いでいます。半島の任那を巡って、隋・唐との一部同盟関係を結び、時に新羅への軍事的圧力をかけるなど、特に外交を担当することが多かった大兄は、その結果、技術・学問の習得をいち早く達成していたため、国家意識や国家観といった概念を自らの中に芽生えさせることになり、大王たるものの資質を確実に身に付けていきました。
 王族に最も活力のあった時代といえるでしょう。ただ、土地を耕し、国を根本から支えているはずの一般民衆の暮らし向きにまで、考えが及んでいたという事実をどこにも見つけることができない…それもまた事実です。権力基盤と体制の強化…そこに国を治める者の意識が集中していました。『治天下大王』の資質とは、そのような種類のものだったと見ることができます。ただ、これもまた私利私欲とは無関係に大切な観念でしょう。大陸、半島は常に緊張状態、激動のさなかにありました。島国とはいえ、国家に充分な体力が無ければ、他国に制圧され、呑み込まれていたということは、充分に想像がつきます。日本の古代国家は、私権文化を持ち込まれても独自の道を模索し、国家の内部においては落としどころを見つけ、充分満足とはいかないまでも、まあ、そこそこというレベルで決着をつけるという『無難』の概念が浸透していたと、わたしは考えます。
 国家の成立過程においては、『模索』が繰り返されます。それに引きずられて民衆の暮らしも号令ひとつで変化します。現代であれば、暴動やゲリラ活動がおこなわれても不思議ではありません。古代国家でも、民衆の蜂起に支えられた国家転覆が他国では起こっています。古代日本ではそれが無理であるほど、民衆(小豪族から一般庶民まで)は脆弱な体力・気力しか持ち合わせていなかったのでしょうか?そうだとすれば、国力の維持は不可能です。民衆が作り出す物資によって、支えられているのが国家です。どんな強権を揮っても、作り手の気力・体力が脆弱であれば、物資の生産は空洞化してゆきます。民衆には、当然『あきらめ』や『不満』はあったでしょう。やはりここは縄文から脈々と受け継がれていたパーソナリティーや、前回示した『場』の概念、自然(原始)信仰等が絡み合い、闘争への道を回避してきたようにわたしには思えてなりません。日々の暮らしが成り立てば、『ありがたい』と考えたのかも知れません。そして恐らくは、彼らにとって重要だったのは、誰が大王に即位したかでは無く、日々の天候や収穫だったに違いなかったのではないでしょうか。
 今回示した王位の移行に関する諸事情を受けて、不確かさを軽減するために模索されたことについて次回、考えてみたいと思います。
(過去ログ)
王権の生産
王権の生産2
王権の生産3

投稿者 milktea : 2010年03月22日 List  

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コメント

武力で私権闘争を勝ち抜いただけでは支配は万全ではなく、「身分」という”制度”を作ったことによって、末端にまで浸透する私権の強制圧力が完成したわけですね。
これ以降、最高の価値(かつ、これがなくては生きていけないもの)は「私権」であり、それを保証するものは「身分」という図式になったということですね。

投稿者 鯉太郎 : 2010年6月7日 17:43

鯉太郎さん、コメントありがとうございます。
私権を共認した社会は、洋の東西を問わず「身分」を共認して秩序維持を図るようになっています。
「私権闘争」⇒「身分」は、普遍的な構造です。
ただし「身分」で完全に秩序維持ができるわけではありません。矛盾と限界をはらんでいます。これは次回に・・・

投稿者 tamura : 2010年6月10日 22:14

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