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2009年02月04日

高松塚古墳のナゾ

こんにちは カナです :wink:
今回は飛鳥美人で有名な高松塚古墳についてお話します
asukabijin.jpg
(画像はリンクよりお借りしました)

高松塚古墳の四神のなぞ
高松塚古墳に描かれている四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)は高句麗の神。高句麗の由来をたどると、①タイ・ラオス・ミャンマー→雲南省→高句麗(農耕民族)、②呉越→高句麗(海洋民族)③北方騎馬民族(ツングース)。任那よりかなり以前に、高句麗からやってきているのではないか?

るいネットより
どうやら高松塚古墳は朝鮮と関係があるみたいです!
どんな人が、どんな境遇の中つくったのか というナゾに迫っていきます
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まず高松塚古墳の概略から...
高松塚古墳ってどんな遺跡?

◆どこ?
奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。
◆いつつくられた?
藤原京期(694年~710年)に築造された。
◆外観
直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。
◆なんのためにつくられた?
権力者の墓(誰かは諸説あり)
※忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子など天武天皇の皇子か?
◆石室
石室がある。石室の寸法は南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cm(いずれも内法寸法)。南の壁をのぞくそれぞれが極彩色壁画になっている。
◆壁画の説明
壁画には、四神のうちの3体(玄武・青龍・白虎)、男子8人、女子8人、星座が描かれている。
◆位置関係
北:玄武
西:南から、男子4人、青龍、日(太陽)、女子4人
東:南から、男子4人、白虎、月、女子4人
天井:星座
南:四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。
ウィキペディアで調べました。

るいネット 高松塚古墳・四神のなぞより ※は筆者追記
この壁画のうちの男子群像と女子群像の風俗画と呼ばれるものが朝鮮風のようです
壁画の展開図がこちら↓
tenkaizu.jpg
(画像はリンクよりお借りしました)

朝鮮との関連性


◆女子群像◆
服装が朝鮮風
ぴょんとはねている髪型が朝鮮風
◆男子群像◆
服装が朝鮮風
宦官(去勢した役人)でない。(騎馬民族には宦官がいない。唐には必ずいる。)

るいネット 高松塚古墳・四神のなぞⅡ 高句麗との類似性より
このように、風俗画は服装や髪型などが朝鮮風のようです。また、朝鮮には風俗画と四神が一緒に書かれている古墳があります。

高句麗壁画古墳に描かれた画題は多岐にわたっているが、主室に描かれた画材について、元京大教授の有光教一(ありみつきょういち)氏は、かって次のように分類された(「高句麗壁画古墳の四神図-四神図の変遷をめぐって」)。
(A)人物・風俗画を主題とする壁画
(B)人物・風俗画と四神図が併存する壁画
(C)四神図を主題とする壁画
そして、壁画の主題はA→B→Cの順序を追って変遷したと考えられると指摘された。

リンクより
これによると高松塚古墳はBタイプの『人物・風俗画と四神図が併存する壁画』であることが分かります。しかし、同リンクによると、このタイプの古墳は5世紀から5世紀の後半にかけて作られていたようです。一方、高松塚古墳は作られたのは藤原期の7世紀前半です。この200年の間は一体なんなのでしょうか
さらに 風俗画は朝鮮のもののようですが、四神の図は中国のもののようなのです
中国との関連性
るいネット Re:高松塚古墳の四神のなぞによると…

・「白虎」は伏儀を祖先とする西方の「巴族(白虎族)」のことです。
・「青龍」とは「東北の秦皇島北部の青龍川を拠点とし舟を巧みに操る水生民族(青龍族)」で「東夷」です。
・「玄武」とは「承徳(かつての熱河)北部の女かや西王母神話をもつ東夷」です。
・「朱雀」とは「山東半島南部の鳥夷」のことです。(「太昊伏義」や「少昊氏」神話をもち鳳凰を合同トーテムとする氏族連合です)
いずれも「チャイニーズにとって異民族のトーテム(血族や部族の紋章となる「自然物や動物」)」を意味するようです。

どうやら四神は中国の民族のトーテムのようです。
さらに、高松塚古墳とよく似ている、永泰公主墓という古墳が中国にあるようです

入口に入って、両側の壁に、東側は青龍、西側に白虎の壁画が描かれています。そして、将軍が鎧をつけ、宝剣を身につけた兵士を率いている画もあります。これらの兵士は儀仗隊です。(中略)葉か道の左右対称の位置にはそれぞれ四個、あわせて八個の小さな龕が造られています。また、唐三彩の家屋、井戸、燭台、壷などのほかに婦人俑、騎馬俑や石、馬、豚、羊などの陶俑が置かれています。さらに進むと、発掘したときに発見した盗掘の穴があります。その時、ここで人の死体と鉄の斧が発見されました。この墓は明らかに盗掘されていましたが、それでもすばらしい唐三彩、陶俑など1350点も出土しました。天庭の部分が終ると、ドーム状の墓室になります。墓室は前墓室、後墓室に分かれています。前墓室は応接間を象徴します。両側の壁は壁画だらけです。「仕女図」は高松塚古墳の壁画に似て入て、日本でも良く知られています。

リンクより
↓こちらが永泰公主墓の仕女図です。 たしかに似てる…
lrg_12574717.jpg
画像はリンクよりお借りしました。
ここからわかる永泰公主墓との類似点は
①作られた時期
高松塚古墳は694年~710年の間につくられ、永泰公主墓は706年に建てられた。
②風俗画と四神が描かれている。

女子群像はこの仕女図を手本にして書いたのか…?というくらい似ています。
なぜ唐のものにそっくりな墓に朝鮮の風俗画が書いてあるのでしょうか
これを読み解くには、当時の支配者、つまりこの古墳を作った人の外圧を考えることが必要のようです
当時の支配者の外圧とは…

 高松塚が築かれる約半世紀前の660年、大陸文化の窓口であり、密接な同盟関係にあった百済が、唐と新羅の征討を受けて滅亡した。百済復興を目指した日本と百済の連合軍は663年、白村江において、唐と新羅の連合軍に惨敗を喫し、多くの百済遺民が日本に来朝した。さらに、日本との外交関係を緊密にしつつあった高句麗も、唐と新羅の征討を受けて668年に滅亡した。すなわち日本は朝鮮半島での足がかりをすべて失ったわけである。
 それゆえか、665年、667年、669年と、戦後処理を含めて矢継ぎ早に遣唐使を派遣している。・・・中略・・・天武朝では多くの政治制度を唐朝に倣って改革し、なかでも唐風の服装を規範とした服装令が施行された点に注目してよい。・・・中略・・・唐朝文化の摂取に急激に傾斜していく様がうかがえる。

リンクより
このように、当時の支配者は大陸との唯一の窓口である、百済との関係を失ってしまいました。そして、服装や規範を唐に倣うことで、大陸と直接つながりを作ろうとしたようです。しかし、彼らは同時に朝鮮人である、というプライドも持ち合わせていました。

 706年に造営された永泰公主墓や章懐太子墓、懿徳(いとく)太子墓などの壁画は、写実性と動態表現において、まさに初唐絵画の頂点に位置する。
 飛鳥美人図は、それら東アジアに普及した唐朝文化の東端に位置するささやかな一例に過ぎない。しかし重要なことは、飛鳥美人は決して唐朝宮廷の美女たちではないことだ

リンクより
当時の支配者は大陸とのつながりを求めて、服装や規範や、墓まで唐の様式に倣いました。永泰公主墓を模倣して唐風に仕立て、一方で、壁画の風俗画は祖国の朝鮮風にすることで、自分達は朝鮮人である、ということをアピールしたのではないのでしょうか。

投稿者 kana0444 : 2009年02月04日 List  

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コメント

シベリアから渡ったのではないとしたら、どうやって渡っていったのでしょう。
アフリカ大陸から直接海路でしょうか?
それとも欧州から?
さすがに太平洋を渡るのは無理だと思いますので・・・。

投稿者 たかし : 2009年3月10日 22:58

初めて書き込みします。
日本の朝鮮文化、という中公文庫の座談会の書籍を読んでいて、古代の日本と朝鮮という座談会を読み進むうちに、高松塚古墳と朝鮮文化との関わりが知りたくなり、ここに辿り着きました。
まさに、朝鮮三国の動静の影響が濃厚であると思いますし、当時の日本の為政者との関連性も垣間見られるように思います。

投稿者 谷口充良 : 2018年9月19日 21:40

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