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2010年09月09日

シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第4回~銅器にみる縄文以来の自然観

こんばんは。考えるシリーズ4回目です。
シリーズ第3回において以下のことが提起されました。

集団と集団を繋ぐ手法に土器製作の技や中身の競争を組み込んだのです。また同じような文様を土器につける事で集団間の友好や相互理解を図ったのではないかと思います。土器の文様は集団内部ではなく外の集団に対して発する為のメッセージであり、それらの評価を巡って競争が起きていた事が伺えます。
縄文中期の土器の“凝り”とはこのように集団内、集団間での認識競争であり、その成果物を巡って切磋琢磨する共認闘争の時代の幕開けではなかったのでしょうか。

このような認識闘争を通じて贈与ネットワークが形成されていくことになりますが、その原点にあったのは縄文人の応合性にあったようです。

複雑に抽象化された縄文土器とは、縄文人の(他集団に対する)応合性の発露であって、世界にも類を見ない高い芸術性は、縄文人の高い応合性に支えられていたのだ。

では、応合性に支えられた縄文土器の“凝り”は、弥生時代になってどのように変遷していったのでしょうか?
文様の変遷を追いながら弥生時代を見ていくことにしましょう。

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【手の文化(縄文土器)から統合文字へ】
この“縄文土器の凝り”は、その後、渡来した銅鐸や弥生土器にも及ぶようになりますが、この贈与における期待応望から生じた認識闘争(評価闘争)たる文様(手の文化)は、時代を経て簡略化・抽象化していくようになります。

日本列島の原始文様がつぎに文字への接近をみせるのは、弥生時代の中ごろ、紀元前2~1世紀のことだ。銅鐸の表面に生き物や人間、道具、建物などの絵が鋳出されるようになる。
注目すべきは(中略)、これら絵の表現が画一的に簡略化されているということである。これらをみると、少なくとも銅鐸の製作にかかわった人びとのあいだでは、特定の物事の描きかたに一定のルールが生み出されつつあったようすがうかがえるだろう。

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具象的な鹿 記号的な鹿

それからもう少し後の紀元後1~2世紀には、銅鐸の絵はすたれるかわりに、土器の表面に動物、人物、建物などがヘラ描きされるようになる。(中略)頭の上に鳥の羽飾りをつけた人間がしばしば描かれているが、これは呪術者だと推測されている。

日本列島の銅鐸や土器や鏡に描かれたI字形もまた、呪術の道具、ひいては呪術者をあらわす図形であることを明らかにした。

『進化考古学の大冒険/松木武彦』より抜粋引用

また、「土器絵画」を分析した春成秀爾氏は、文様が時期を追うごとに簡素になり、ついには約束事を知っている人でなければその形が何をあらわしているのかわからないほどの記号化が進んだことを明らかにしています。

■“凝り”の簡略化・抽象化が起こったのは何故か?
縄文土器の“凝り”とは万人に開かれていた「祈る・考える」という行為そのものであると同時に、集団間の認識闘争⇒贈与ネットワークでしたが、弥生時代になると集団規模の拡大及び統合集団が形成され、「祈る・考える」という行為であった“凝り(文様)”は、祭司階級(統合階級)が登場し、彼らしか解らない統合のための記号へと変わっていきます。
このようにして文様が“凝り”から簡略化・抽象化した記号へと変遷したようです。

つまり、万人に開かれた「祈る・考える」行為と時間は、より上位の階層の祭司へと統合・独占されていく過程を辿ることになります。これは、日常品の土器からは“凝り”(文様)が消失し、祭祀用の銅鐸や銅鏡には簡略化された記号が登場することからも、より上位の階層(祭司)による統合・独占したことが伺えます。

このように「祈る・考える」の象徴であった文様は統合階級である祭司に一元化されるようになりますが、庶民発の縄文土器の“凝り”にあらわれていた精神は消えたのでしょうか?

【考えることの原点を銅鐸・銅剣の遺跡に探る】
「祈る・考える」の象徴であった文様が一般庶民から統合階級に移行してもなお、その原点にある思考性は継承されたと考えられます。
弥生時代の銅鐸・銅剣の遺跡にその継承の跡を見てみたいと思います。

そもそも銅鐸は中国から渡来したものではなく、朝鮮の馬の首につける鈴が渡来し祭器になったとものであるという説があります。
朝鮮では漢式馬車に乗る貴族こそが尊敬の的であり、憧れの的であったため、この馬車につける鈴こそが貴族のシンボルであったと考えられています。従って、日本に渡来した朝鮮人は、このような銅鐸を非常に貴重なものとして宝器、祭器に用いたと考えられます。

しかし、それらの貴重であるはずの宝器、祭器が大量に埋納されているのが発見されました。荒神谷遺跡からは大量の銅剣(358本)、加茂岩倉遺跡からは銅鐸(14個)が出土しました。

■貴重であるはずの宝器、祭器を埋納したのは何故か?

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写真の「×」に注目

荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した銅器のほとんどには「×」印が刻まれていました。この意味するところは不明なままでしたが、同じような状況が縄文時代の土偶においても伺えます。

土偶は死んだ妊婦を弔うものとして一緒に埋葬されたようです(『土偶は妊婦を葬る葬儀品』より)。そして、弥生時代の宝器、祭器であった銅鐸や銅剣の埋納もこの土偶と同様であったと思われます。
また、土偶を割って埋葬することは(死後の世界は不完全なものが完全、不完全な状態にすることは)、あの世へ行き、そしてまた戻って来るという縄文的“あの世観“の現われであり、この生死観・自然観が継承されたものが「×」印の刻まれた銅器であったようです(銅器は硬いため簡単には割ることが出来なかったため「×」印を付けることで、不完全なものとして埋葬したようです)。

ポトラッチの起源が原始にまでさかのぼるなら、神々や精霊への捧げものが原初の姿だったと思われます。何より精霊との期待・応望関係こそが最先端の課題だったはずで、獲物や生殖の恵みを祈って捧げものをし、そして同時に集団の共食の祭りを伴っていったと想定されます。捧げること(=人間は消費しない、使わないこと)が、次第に貴重品の投棄や破壊という行為につながり、共食の祭りが一種の分配制度のように機能していったと考えられます。

弥生の祭祀具とされる銅器が大量に埋葬されていたのは、王の権威を誇示するものというよりは、縄文的生死観・自然観の象徴(集団全体の祈りたる結晶物)であったことが伺えます。




縄文から弥生へと集団統合(贈与ネットワーク)が拡大するなかにおいて「祈る・考える」の象徴であった文様は統合階級である祭司に一元化され、統合階級しか解らない文様(記号)へと簡略化されることになりますが、その原点たる生死観・自然観(精霊との期待・応望関係)は庶民の間で脈々と継承され、それゆえに祭司階級(統合階級)も縄文以来の生死観・自然観を受け入れた政を行ったと考えられます。

では、第5回も応援よろしくお願します。

「日本人の‘考える力’を考える」シリーズ
第1回~序:追求の目的と視点
第2回~追求の立脚点
第3回~縄文土器はなぜ凝ったのか?




〓〓参考書籍〓〓
『進化考古学の大冒険』 松木武彦/新潮選書
『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』 梅原猛/新潮社

〓〓参考記事等〓〓
縄文土器が複雑化していったのは、なぜか?
捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ
土偶はすべて異様な顔をしている??
土偶は妊婦を葬る葬儀品
お盆休み企画番外編~出雲古代史の旅日記

投稿者 yoriya : 2010年09月09日 List  

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コメント

いつも覗かせていただいております。
そして感心させられております。
当拙ブログへのご来訪感謝申し上げます。
縄文は北はバイカル湖経由でいいと思いますが、南九州の縄文人がどこからかはいまだに決着できておりません。今後ともご指導願います。

投稿者 Kawakatu : 2011年1月10日 16:08

ぽちさせていただきました。

投稿者 Kawakatu : 2011年1月10日 16:11

kawakatuさま
訪問していただきありがとうございます、
更に早速、課題を出していただきました。
>南九州の縄文人がどこからかはいまだに決着できておりません。
Y染色体分析も参考になりますが、発掘された遺跡等を調べ合わせて行けば仮説が立てられるかもしれません。
追求していきたいと思います。

投稿者 tamura : 2011年1月11日 22:54

tamuraさまへ
メールいただきまして、ありがとうございます。
実はメールソフトが壊れて修復に手間取っていました。
送っていただいた内容を見ることができなかったのですが、新たにメールソフトを導入しましたので、もう一度送信していただけるとありがたいです。
受信してからかなり時間が空いてしまいました。いろいろと時間の拘束があり、ご返信遅れたことをお詫びいたします。

投稿者 kawakatu : 2011年1月22日 16:23

kawakatu様
メールを入れましたのは私です。
会員の希望についてお聞きしたかったものですから入れさせていただきました。
了解しましたので、再送させていただきます。
よろしくお願いします。

投稿者 tano : 2011年1月23日 12:47

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