2010年9月2日

2010年09月02日

シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第3回~縄文土器はなぜ凝ったのか?

こんばんは。”考える”シリーズ3回目です。
縄文時代を扱う今回は初回に提起した下記の文章から始めたいと思います。
専ら、舶来信仰に依拠し、外来思想の受容を旨としてきた日本人は、果たして現代の難局を前に、「自前でモノを考えだすのか?」
日本人は考える事をわざわざ”モノを考える”と言います。
日常的に使っている“モノを考える”のこの“モノ”とは何なんだろうか?
縄文塾の中村先生は日本人の文化を西洋の「足の文化」と対比させて「手の文化」として表現しています。この「手の文化」こそ、モノの本質ではないのでしょうか?

孤絶した島国という特異な環境が、採集→農耕という、一種のモノカルチャーを生んだのだが、日本の豊かな風土は、はやくから定住生活をもたらし、有り余る余暇をモノづくりに費やすとい計う「手の文化」が醸成された。縄文土器がその典型である。
 日本以外のほとんどすべての国では、狩猟→遊牧の民と採集→農耕の民との抗争と融和の歴史が相次ぎ、結果として行動力にすぐれ、戦いのテクニックに長じた遊牧の民が農耕の民の上位につくという構図が定着してきた。いわゆる「足の文化」である。言ってみれば、足の民は移動という得意技を生かして「通商」に特化し、手の民はモノづくり、すなわち「工」に特化することになる。~縄文塾より

手を動かす事は脳の発達を促すといいます。日本人の可能性とはこの「手の文化」にあるのではないでしょうか?土器を通じて育まれた“考える”力はその後の日本人の工夫志向、外来のモノを受け入れ日本流に改変していく柔軟性へと開花していきます。日本人にはその歴史の90%を占める縄文時代に育まれた物質(=モノ)を通じて情報や意識を交換する長い歴史が在るのです。
そのような目線で縄文時代を見ていくことにしましょう。
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投稿者 tano : 2010年09月02日  



 
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