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2008年05月20日

弥生を丸裸にせよ!

こんばんわ!tanoです。
日本の歴史で最も大きな転換点は弥生時代であるとよく言われます。また中学の教科書などには文明の曙として弥生時代以降を日本の歴史としている件もあります。
この最も大きな転換点である弥生時代を私達はどれほど知っているでしょうか?

先日もいつもの縄文ブログの仲間と話していてこの600年間が全く持って茫洋としている事に気が付きました。
せいぜい、農耕の伝来、弥生人の渡来、戦争の始まり、クニのはじまりなどの社会の教科書に毛が生えた程度の情報しか押さえられていない、なぜこんなに弥生時代の事がわからないのか?そこに行き着いたのです。
縄文時代という本源集団が解体され、1000年後に大化の改新によって律令制度が敷かれるまで弥生―古墳時代の間はまさに私権社会への転換時期に当たります。その最初の弥生時代とは一体どんな時代だったのか?どのように縄文社会が駆逐されていったのか、どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのか?縄文人は渡来人を受け入れたのか?反発したのか?
史実に即して明らかにしていけたらと思っています。
視点は教科書に出てくる表舞台の話ではなくできるだけ庶民、社会、意識という側面から明らかにしていきます。
「弥生を丸裸にせよ!」しばらくはこの企画で連続していきたいと思います。
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初回は縄文人の農耕民化について扱ってみたいと思います。
藤尾慎一郎氏のHPから紹介します。
渡来人と縄文人の綱引きがよくわかる論説です。ちょっと長くなりますが、お付き合い願います。

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約1万年続いた狩猟採集活動を生産基盤にする縄文文化は,いまからおよそ2500年前に水稲農耕を生産基盤にする弥生文化に転換する。
その最初の舞台となった九州北部で,縄文から弥生への転換がどのような過程をへておこなわれたのかを説明する場合,在来の縄文人が中国や朝鮮半島の先進的な文化を選択的に受け入れたことによって転換をとげたという考え方と,おもに朝鮮半島から渡来した人びとが先進的な文化を背景に転換をおしすすめたという考え方がある。
一般に縄文人主体説,渡来人主体説と呼ばれるこの二つの考え方は,弥生文化の起源に関する研究が本格化するころからみられるようになり,ある時は縄文人主体説で,またあるときは渡来人主体説で説明されてきた(中略)
縄文から弥生への転換過程を考える場合に必要なのは,個々の要素をバラバラに取り上げて連続性や非連続性をみるのではなく,文化の複合体として総合的に取り上げて,連続性と非連続性をみることと,転換過程の具体的な復元をおこなったうえで連続性と非連続性をみることである。
とくに後者は,在来の人間と列島外の人間がどのようにして接触し,交流をもち,水稲農耕を生産基盤とする生活を始めるのかという具体的な復元作業抜きに考えることはできない。
 そこで本稿では,この作業をおこなうために弥生文化が最初に成立した地域の一つである福岡平野を取り上げ,在来の人びとと外来の人びととの間に生じた相互交流の内容を具体的に復元する。
⇒著者はこの書き出しの後、福岡県の代表的な弥生農耕遺跡4つをを土器の遺跡から分析して農業の開始時期、農機具、社会の発展形態を対比させている。
四箇遺跡、板付遺跡、那珂遺跡、雀居遺跡である。
その内、今回は板付遺跡を紹介してみたいと思います。
■2 板付遺跡
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板付遺跡は,古諸岡川や那珂古川(現御笠川)がつくった谷底平野や氾濫原に囲まれた標高12~15mの中位段丘上に,長径が110mほどの内環壕に囲まれた居住域と,そのまわりに広がる貯蔵穴,甕棺墓地,さらにその外側をめぐる幅10mの外環壕と灌漑施設を備えた水田からなる。環壕は南北370m,東西170mに達する巨大な二重環壕である。
内環壕に囲まれた内部は削平を受けていたこともあって住居跡は見つからなかったものの,貯蔵穴が確認され,それらの数から10~15軒の住居があったと考えられている。内環壕と外環壕の間には貯蔵穴や甕棺墓が見つかっている。甕棺墓に葬られた小児のなかには副葬品をもつ小児ともたない小児が認められ,しかも副葬品をもつ小児は集落の中心部に近い内環壕のすぐ外側に葬られていたことから,Ⅰ期の集団内にはすでに階層差が存在していた可能性が指摘されている。 
板付遺跡に人が現れたのは早期古段階である。この中位段丘上には縄文後・晩期に人の住んだ形跡は認められていない。したがってそれまで利用されていなかったところに水田,木製農耕具,大陸系磨製石器,突帯文土器や祖型甕をもつ農耕民が突然現れたことになる。
水田は幅2mの水路と井堰からなる灌漑設備をもち,面積が180~300㎡に達する細長く帯状のものであった。田崎によると水田は中間型に属し,給排水を目的とする灌漑施設をもつことから,きめ細かな調節さえすれば高い生産性を上げることができるものであったと考えられている。
 そのほかの道具類からみても,板付遺跡の人びとが生産性の高い農耕生活を営んでいたことがわかる。
 環壕が掘られた時期は,早期新段階までさかのぼる可能性も指摘されているので,水稲農耕開始後わずか100年足らずで社会の質的変化や集団内の階層化が進んだことがわかる。
Ⅰ期末には集落東南部の内環壕と外壕の間に墳丘墓が造られ,甕棺のなかに青銅武器を副葬された有力者を生み出すまでになっていたことからすれば,福岡平野下流域の中核的な集落としての位置を占めていたと考えられる。 
以上のことから板付遺跡は,早期のはじめにだれも利用していなかった土地に農耕民が進出して,水稲農耕に専業化して農耕社会を成立させ,地域的盟主を生み出した集団であったことがわかる。

⇒板付け遺跡が最も先行した農耕集落であり、同時に弥生時代の文化的要素(階層化―武器装備―防御)を最初に全て備えたプロトタイプとも言える。

続く

投稿者 tano : 2008年05月20日 List  

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コメント

インド初代首相ネルーはこう書いていました。
「イギリス人は帝国の人種であり、我々を支配し、従属下に置く神が与えた権利があるのだ、と我々は言い聞かされてきた…」
イギリス支配下のインドの実態について、以前私も記事にしました。TBがうまくいかなかったので、直リン貼るのをお許し下さい。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/112a765fc9a0f9364b9f74ebbeb69558

投稿者 mugi : 2008年6月25日 22:26

mugiさんこんばんは、コメントありがとうございます。
近代史のなかで、一番植民地を支配し、各地でいろいろやってきたのがイギリスとアメリカですが、あまり非難されることもなく、うまく情報操作しながらやっている感じですね。
その仕組みとか歴史的な経過を明らかにしたいと思っています。ちょっと時間かかるかな~。
また、mugiさんのブログのほうもお邪魔したいと思いま~す。

投稿者 Hiroshi : 2008年6月30日 19:37

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