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2011年06月16日

「南から見た縄文」11 ~弥生期までの朝鮮半島と北九州の関係は?~その2

 前回は、古モンゴロイドが住まう朝鮮半島に、北から新モンゴロイドが、南から別の古モンゴロイドがやって来ることで、朝鮮北部と南部で違う文化が形成されたところまで、見てきました。
 今回は、朝鮮半島、北九州への稲作の伝播から、朝鮮半島の原三国時代までを見ていきます。
 どうやって稲作が伝播したのか?
 どのようにして原三国時代へ突入したのか?
 通説を検証しながら、見ていきます!
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■<無文土器(支石墓)時代>縄文時代後期~縄文時代晩期(約3500年前~2300年前)
水田稲作はどこからやってきたのか?
 この時代の最大の変化は、何と言っても農耕が始まったことです。炭化穀物の出土状況から、半島南部では稲作、半島北部では焼畑が主流でした。
 半島北部の焼畑は、黄河文明より伝えられたもので、中国北東部を経由して陸上ルートで伝えられました。逆に、半島南部の稲作は、近年の米のDNA分析から、長江下流域の湖熟文化より海上ルートで伝えられたことが分かっています。
 そして、通説では、半島南部に伝わった稲作が、北九州に伝達されたことになっています。
 しかし、南(華南)から北(朝鮮半島)に行って、また南(九州)に下がってくるというのは、何とも不思議で、実は、稲作は九州から朝鮮半島へ伝播したのではないでしょうか?
 事実、北九州の菜畑遺跡(約3000年前の遺跡)からは、縄文晩期後半の突帯文土器、夜臼式(弥生土器の原型)よりも古い山ノ寺式といわれる土器の層から、水田址4枚や水田稲作に必要な道具が発見されており、朝鮮半島南部で確認された最古の水田跡(無去洞玉峴遺跡)は、約2800~2500年前となっていることから、ほんのわずかですが、北九州の方が早く、水田稲作が始まっています。
 また、海流と気候の関係からも、北方ルートはありえません。なぜなら、従来長江からのルートとして考えられてきた、山東半島及び朝鮮半島西側は、西の黄河や北の遼河から流れ込む寒流の影響で、寒冷乾燥の土地となっており、水田稲作には適さないところであるからです。逆に、九州は南からの暖流の影響で、温暖湿潤な気候となっており、水田稲作に適しています。
 よって、長江下流域(温暖・湿潤)→山東半島(寒冷・乾燥)→朝鮮半島西側(寒冷・乾燥)→九州(温暖・湿潤)といったわざわざ不適な箇所を時間をかけて通るルートは考えられず、長江下流域(温暖・湿潤)→九州(温暖・湿潤)→朝鮮半島南部ではないかと考えられます。 そして、このことは、従来、稲作の伝播と同時に語られる「支石墓」の伝達ルートからも見て取れます。
支石墓はどう広まったのか?その担い手は?
 約3000年前から朝鮮半島を中心に現れ始める独特なお墓があります。それが支石墓と呼ばれるもので、南朝鮮に多く分布(下図参照)しています。

 このお墓も通説では、山東半島②→遼東半島②→朝鮮北部②→朝鮮南部③→九州①といったルートが提示されてきました。そして、このお墓と一緒に土器と水田農耕が伝達されたと言われてきました。
 しかし、南朝鮮から北九州に伝わったのであれば、その途中である、対馬や壱岐にも支石墓が残っていても良いはずです。にもかかわらず、現在まで、必死に発掘作業がなされていますが、一つも発見できずにいます。
 であるならば、支石墓の形式(姿形)と分布状況及び海流から、伝播ルートは通説とは逆なのではないかと思えてきます。
 その理由として、まずこの支石墓の分布を中国まで広げ、その形状をプロットしてみた下図をご覧ください。

 ここから分かるのは、支石墓はそのほとんどが、海岸沿いに分布しており、南方に分布(①、③)しているものほど、支石が短く、加工も粗っぽく(ごつごつしたまま)、地下に遺体を埋葬しています。
 逆に北方に分布(②)しているものほど、支石が長く、加工も洗練されており(きれいに削られている)、地上に遺体を安置しています。
 一般に前者が「南方式」、後者が「北方式」と呼ばれています。
そこで、このお墓の作り方を想像していただきたいのですが、特に「北方式」ですが、一つ数十トンもある石を持ち上げて作ったのでしょうか?クレーンでもない限りとてもじゃないですが、人力では不可能だと思います。では、どう作ったのか?考えてみました。下図をご覧ください。
 
(1)まず穴を掘り、支石を立てます。
(2)次に支石の周りを土で埋めて、山をつくります。
(3)そこへ、上に載せる大きな石をコロ等を用いながら運びます。
(4)そして、盛った土の上に大きな石を置いて、
(5)周りの土を取り除けば、はいできあがり!
 この方法なら、クレーンなしでも人の力でできます。
 ここで注意して見ていただきたいのが、(4)の状態です。これは、「南方式」に当てはまる①や③の状態に近いのが分かると思います。であるならば、南方式である①や③が先に作られ、後から北方式である②へと発展していったと捉える方が、しっくりくると思います。それにどう考えても、①や③の方が作るのが簡単です。
 以上より、通説となっている、北方式の②から始まって、南方式の①や③になったというのは、考えにくく、北から南へ下って来たということも単純には言えなくなります。
 では、どうやって広まったのでしょうか?
 その謎を解く鍵も海流と支石墓の分布にあります。
 最初に作られ始めたと思われる①や③の位置からすると、長江下流域がその発祥地にふさわしいと思います。そこから、海流に乗り、鹿児島、北九州、済洲島、南朝鮮そして、山東半島、遼東半島といった海流の道が見えてきます。このように伝播すれば、対馬や壱岐に伝播しなかった理由がわかります。
 そして、朝鮮半島南西部に大量にある理由もわかります。

 この海流に乗って九州、南朝鮮に移動したのが、長江下流域の殷周代の文化である「湖熟文化」です。この文化は、後の「呉」や「越」の源流であり、稲作漁労の文化でした。
 彼らは、殷と周の争いによる戦乱の影響から逃れるため、船で逃げ出したのでしょう。もう戻ってくることは考えずに、新天地を求めて海流に乗り、方々へ散らばったのだと思います。その時に、稲とその道具を携えてやって来て、支石墓の作り方も現地の人へ広めたのでしょう。
 
 彼らこそが、弥生人の第一波であり、続く第二波も第三波も同じ長江下流域からやって来ることになります。
 その後続部隊が来ることで、朝鮮半島に祖霊信仰が持ち込まれ、支石墓が極端に大きくなり、象徴的な存在となり、一気に半島中へ拡がります。どの支石墓も丘の上に建てられ、あたかも祖先に見守ってもらう、あるいは、崇めるような態度が見て取れます。
 この後続部隊がやってきたのが、BC5世紀辺りであり、ちょうどその頃、中国では春秋戦国時代へと突入していました。
■<原三国時代>縄文時代晩期~弥生時代(約2300年前~1700年前) 
 半島の韓人、倭人の出自は?
 この頃から、半島情勢が慌しくなり、本格的に私権時代へ突入して行きます。
 半島北西部には、ツングース系のワイ族・パク族がいた所へ中国人が流入し、箕氏朝鮮が建てられ、そこへBC194年に衛氏朝鮮が成立、その後BC108年には、漢の武帝により、楽浪郡をはじめとする郡県制が敷かれ、中国の支配下に置かれます。
 そしてAD313年に高句麗がやってくるまで、約500年間中国の文化が持ち込まれます。
 一方、半島南部では、韓人と呼ばれる民族が登場します。彼らは、辰国を作り、やがて馬韓、辰韓、弁韓といった原三国時代へと突入して行きます。
 この辰国を作った韓人こそが、支石墓を大々的に広め、半島南部へ私権意識を持ち込んだ張本人でした。
 では、彼らの出自はどこか?
 上記で、中国が春秋戦国時代に突入していたことを書きましたが、その戦乱による敗者が彼らでした。それが、BC5世紀に「越」に敗れた「呉」の民でした。彼らは稲作漁労の民であり、操船技術を駆使して、半島南西部に辿り着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを形成しました。これが辰国になります。九州に対しては、彼らが第2波の弥生人となります。
 韓族は主に半島南西部に居住し、ここが後の馬韓になります。そして、この馬韓が東進し、ワイ族を追いやり、一部が分裂し辰韓を作ります。
 次いで、BC4世紀後半、長江下流域で最後の南アジア人の国である「越」が「楚」に敗れ、彼らも稲作漁労の民であったため、大海に逃れ、海流に乗り半島南部と九州北部へやってきます。彼らが、「倭人」と呼ばれる民で、弁韓地域に居住しました。
 どうして「越人」=「倭人」であるかというと、まず一つに製鉄技術があります。

 彼らは、稲作漁労の民ではありますが、銅や鉄の製造にも特化しており、半島南部の鉄の産地、後の「金官伽耶」に主に居住し、九州北部に渡った「倭人」と交流を続けました。
 その結果、彼らの得意とした直接製鉄法(タタラ製鉄)が半島南部、九州、出雲等で広まり、中国北部及び半島北部の間接製鉄法とは違った製鉄技術が形成されるに至ります。
 また、彼らは大人子供の差異なく、身体中に刺青を施していました。
 これは、『魏略』の中に「其の風俗は男子大小となく皆鯨面文身(刺青)す、昔からその使いが中国に来ると自らを太伯の後という」とあるとおり、倭人の特徴に似ています。また、「太伯の後」というのは、呉の後ということで、「越」のことを指しているのではないでしょうか?
 呉人には、もともと文身(刺青)の習俗はなく、後の越人にはあるため、「倭人」=「越人」であると考えられます。そして、先行して朝鮮半島に渡来していた「韓人」が「呉人」でした。そして、『辰韓伝』に「倭に近いところの男女は、倭と同じように文身する」とある通り、後からやってきた「越人」の影響で、出自を同じくすることから、文身する「韓人」もいたようです。
 
 つまり、「韓人」や「倭人」とは何か?華南の「越」人であり、主に長江下流域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族のことです。華北は彼らを「百越」と総称しました。余談になりますが、今でも北陸地方を「越」と言いますが、これも「越人」がやってきた名残です。
 ここで、半島の北に拡がる中国東北部に目を転じてみます。この辺りには、ツングース系のワイ族、パク族が居住していましたが、BC2世紀末、モンゴル系の扶余族が満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血します。やがて彼らは、北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、「扶余国」を建てます。
 この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けてAD4世紀前半に滅亡し、一王子が逃れて東扶余国を建てますが、今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧します。これが「百済」の建国です。
つまり、百済とはその王族は扶余人、その住民は韓人という「二層構造」の国家だったのです。
 この時、辰国が解体され、動乱の末、半島東部に新羅が成立します。新羅は、王族も住民も韓人で、成立はAD6世紀初めとなります。
 最後に、後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶諸国)ですが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成しました。これは「倭人」が「韓人」による統合を拒んだためと思われ、特に、「任那」があったとされる南岸の金官加羅は、中国に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家でした。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあり、そのため、他の二国よりも、北九州や出雲、北陸に渡った「倭人(越人)」との交流が活発でした。

 こうして、朝鮮半島は三国時代へと突入し、本格的な私権時代へと移行して行きます。
 以上2回に分けて、旧石器時代から、弥生期までの朝鮮半島情勢を見てきました。
元々は、縄文時代を形成した古モンゴロイドが居住する地域で、火山との戦いの歴史であり、初めは朝鮮半島から北九州へといった文化の流れでしたが、温暖化するにつれて、海洋民の影響で、北九州から朝鮮半島へといった流れが形成されていきたことが分かりました。
 さらに時代が下ると、中国東北部から華北勢が、そして長江流域から海流に乗って南朝鮮に華南勢がやって来ることで、中国での華北勢と華南勢の争いが、そのまま、朝鮮半島でも繰り広げられる形となります。
 そしてこの争いが、九州から本州へと伝播していき、古墳時代から大和朝廷へと繋がっていくこととなります。
 つまり、九州や南朝鮮への人の流入は、南(江南地方)からが主だったのです。

投稿者 jomon10 : 2011年06月16日 List  

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コメント

漢族の自然観と言えばいろいろありますが主流として治水の思想だと思う
治水者は天下を取る
治水の思想は塞ぐじゃなくて導くもん
農耕社会の基本思想だと思う、遊牧民は逆に自然摂理を重んじる
日本の思想は遊牧民の発想だと思う

投稿者 匿名 : 2011年12月11日 18:01

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