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2009年03月23日

弥生時代から、何が新しく始まったか?

最近は、弥生当りの追求が多いですね。
自分は縄文時代ばかり調べていたので、弥生時代を良く知りません。
わかりやすいまとめがあったので、縄文から弥生に入り、何が変わったか?
基礎的なデータとしてアップしてみたいと思います。
Byさーね :o
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参考図書の記述をほぼそのまま抜粋しています。
赤字:大陸からの影響 青字:社会の様々なシステム
で色分けしてみました。
――――――――――――――――――――――――
堰や水路などの灌漑施設を作って行う水田稲作農耕がはじまり、そこに労働力が集中し投下され、縄文時代とは異なった労働形態や年間の生業スケジュールの地域的採用が段階的に進んでいった。
*多くの栄養素を含んだおいしい米が食べられるようになり、生業や食生活など日常生活の変化にともなって、土器も甕・壺・高杯などが中心となっていった。ブタ・ニワトリが飼育されはじめ、朝鮮半島系のイヌが食用にされた。
*道具も、石包丁・石鎌などの収穫具や農耕具を製作するための各種木工用石斧など、いわゆる大陸系磨製石器が採用された。
*やがて石器は青銅器・鉄器に置き換えられ。金属器の使用が始まった。
*金属器を管理し、金属器・石器などの原料や生産システムを掌握・管理した階級、あるいは祭祀を司った階級、手工業生産に携わった階級などが生まれた。ただし集落や地域のリーダー、祭りを司る人びと、職能的にすぐれた人びとは、縄文時代にも存在したらしく、弥生時代になってより専業的になったと考えられる。縄文時代以来の伝統を受け継いだ日本的に階層社会の性格が、鮮明になってきたのではないだろうか。
*水田や畑地などのために土地を囲い込む、あるいは水田開発や灌漑施設の設置などには、土木工事や農業を指揮する権力者やリーダーを必要とした。
*この過程で余剰生産も生まれ、余剰物に付加価値を付けて商業的に取り扱う者もでてきたと考えられる。この点、縄文時代でも社会的ネットワークを基盤に物流システムが整備され、物流を司ったり実行する人びとがいたことはまちがいないが、専業化や富の蓄積などの面で質的に異なったのであろう。
*政治や祭祀のリーダー、兵士・職人などの固定した階級と集団組織が生まれ、国や政治組織の成立に向けての確かな動きがはじまった。この動き、方向性が縄文時代とは異なった選択をしはじめたという点で、本質的な違いとなった。
支石墓や木棺墓など朝鮮半島系の墓制が採用され、各地に独特な階級制の出現を表す墓や葬送儀礼が見られるようになった。
*西日本では、日常生活の場として、農耕用の用水確保や防御、区画などのための環濠や柵列などが築かれ、内部に祭殿や首長の居館、金属器やガラス・石器などの工房、高床倉庫・貯蔵穴などの施設を持ち、集住して集落内に社会的分業を成立させた。このような集落は、都市の初源的な形態、成立であったと説明されている。
*糸を紡いだ紡錘車や織機の存在によって紡織技術の導入、さらには繊維の染色技術もあったことが証明されている。一方では、縄文時代以来の編布も、根強く受け継がれていった。
*縄文的な祭祀を捨てて、卜骨・刻骨、木の鳥や魚形など、あるいはイノシシ下顎骨の連結などに見られるように、農耕儀礼を中心とした新しい祭祀が採用された。
(参考図書:日本の歴史01 縄文の生活誌 岡村道雄著 講談社学術文庫)
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食料確保、日常の集団統合、道具、生活技術、祭祀とあらゆる面で
・大陸からの道具や技術がかなり入ってきている。
・大陸での身分制や市場などが徐々に構築されていっている。
ことがよくわかるわけですが、一方でなんで?と思うことがあります。
縄文は1万年。弥生時代は500~600年。こんな短い間に、なんで?こんなに社会が変わっていったのか。結構なスピードです。戦争や争いごとは少ない。(上記の西日本に見られる程度)日本人はマネがうまいとよく言われますが、そうではなく、スピーディーに吸収していったというのが事実ではないかと感じました。

投稿者 sawatan : 2009年03月23日 List  

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コメント

クロマンタ楽しく拝見しました。
クロマンタは蝦夷のつながりを色濃く残す場所。
アイヌと言えば北海道ですが、北東北にもアイヌ語が地名などになっている土地が多いのです。
(にんにくで有名な田子町(たっこ)もアイヌ語です。)
クロマンタを中心にすると、正確に東西ラインから22度離れた位置(冬至の日の出、日没ライン)に今も現存する神社があることが黒又山を山岳祭祀遺跡に位置付ける最も決定的な要因だそうで、エジプト・ピラミットにみる「太陽の文明思想」を兼ね備えたと考えると、生死の自然の営みを冬至を夏至の太陽の動きに準えたと考えると、高度な文明がそこにあったとごく自然に考えられます。
クロマンタの側には大湯環状列石もあり十和田高原神都説もそこから推察され、今は十和田湖に位置する場所に十和山という、岩木山、八甲田山級の山があった様です。
十和山は富士山と同じかそれ以上の霊山であったようですが、大噴火を起し消えたという書もあります。
のち地質調査から火山灰の痕跡がみつかり裏付けされたそうです。
竹内文書の中にキリストが修行したとされる、大黒石ピラミットにも太陽石と東西南北を指す方向石があります。
太古の人々はいわゆるパワーストーン(陰陽の力を持つ石)を知っていて、その力を賢く使ったのではないでしょうか?
地球のグリット(震動する場所)になる部分がパワースポットである事は分かっていますが、こと日本の場合はグリットが神社(古神道=古振動)であった事は間違いないようですから、太古の人々の能力は素晴らしいものがあると想いを馳せます。

投稿者 ふじこ : 2009年4月24日 09:53

etoさん、ふじこさんこんばんは、
>山麓から山頂部に向かって7段から10段程の階段状構造が地中に見られる事が分かっています。頂上には環状列石や縄文期の祭祀用の土器が発見されており、麓には大湯環状列石があります。
クロマンタ・・・不思議ですね。この記事とふじこさんのコメントを読んで全体像がもっと知りたくなりました。
そして、どんな祭祀をしていたんだろうか?なんのために作ったんだろうか?ふもとのストーンサークルは?三内丸山と関係あるんだろうか?・・・とか疑問がどんどん沸いてきます。
原始・縄文の精神世界の一端に触れた感じがしますが、現代人には、まだまだ深層に迫れない・・・・そんなもどかしい感覚。

投稿者 Hiroshi : 2009年4月25日 01:33

ふじこさん、Hiroshiさん、ありがとうございます。
縄文ワールド、たしかに不思議ですね。
一体どんな高度な文明をもっていたのでしょうね。
実は私の生まれ故郷にも縄文ピラミッドと呼ばれる山、米神山というのがあるんですよ。今回調べて初めて知った次第ですが。(汗)
最近は古代の信仰や祭祀に関心があって少しずつ調べていますので、また続編をお届けできればと思います。
ふじこさんも情報提供いただければ嬉しい限りです。

投稿者 eto : 2009年4月25日 20:27

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