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2013年11月06日

「神社ネットワークの解明」5~神社ネットワークの誕生~

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写真はこちらからお借りしました。
  
前回は、神社ネットワーク成立前夜の集団統合~シャーマン=巫女の役割をお届けしました。
今回は、弥生時代から古墳時代に入り、大和勢力が形成されて各有力豪族がネットワークで結ばれていく時代の中で、神社ネットワークはどのように誕生し広がっていったのかを追って見たいと思います。
神社ネットワーク誕生の歴史を追及するに当たっては、先ずは私たち自身が常識と感じていることを改めて捉え直す必要があります。
それは「神社」に対する神聖さ、荘厳さのイメージは、実は明治時代に入り、天皇を中心とする近代国家として日本を位置付け直すために、為政者によって作られた非常に新しいイメージだと言う事です。
神社と性は、歴史的に切っても切れない関係にあったのですが、明治時代に入ってから新政府によって性的なものが排除されていったという歴史があります。
天皇の超越性、現人神であることを浸透させるためには、俗的な、下半身の「性」は政府にとっては邪魔なものでした。
そのため、神社の性的なものは排除され、現在の私たちが当たり前に感じているような、神社は「神聖なるもの」とのイメージが固定化されていきました。
神社の本来の姿は常に「性」と結びついており、集団本来の充足基盤に根差していることを再認識する必要があります。
それでは、「性」と神社の関係に着目しながら、神社ネットワークの誕生を見ていきましょう。
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縄文人は、日本列島においてどうしようもなく繰り返される自然災害ゆえに、自然を否定することなく同化し続け、自分たちを超えた存在としての自然に畏怖の念を抱き続け、自然の中に「神」を見出していきました。
ですから、縄文人たちが祈る「神」は、山や巨岩、巨木など、自然そのものでした。
そして、自然だけでなくあらゆるものを肯定視し、受容れる縄文体質が形成されていきました。
自然への感謝、仲間への感謝を全ての基盤とした集団においては、集団にとって最も重要な性充足は当然ながら皆に開放されており、性充足は集団統合の中心にあったと思われます。
私の愛した日本の性文化http://www.geocities.jp/jiyoudan3_55/yobai.html#syuudankon
(Miracljoudan氏)からの引用です。

(以下引用)
そもそも、日本民族の基本的精神は「農耕の文化」から成り立ち、自然に優しく自然と共生する知恵も持っていた。
在るものを見つけ出す事が「自然との共生」であるから、性欲を頭から否定する風潮や信仰はこの国には無かった。
全村身内気分の精神の根底に在るのが、長く続いた日本民族の「性におおらかな感性」である。
古代日本列島では縄文人が住んでいて、男女の関わりが現在のような一夫一婦制ではなく「集団婚(群れ婚)」だった。
また日本民族は、全村(共通生活地域)身内気分の精神で、隣人と力を合わせて生活する「村落共生社会(村社会)」と言う形式の「群れ社会」だった。
或いは、被征服先住の日本列島の民、蝦夷族(エミシ族・縄文人)に、この習慣があったのかも知れない。
つまり歴史的経緯からすると村落社会における夜這いは、言わば「集団婚の一形態である」と考えられるのである。
「集団婚(群れ婚)」という婚姻形態は、一言で言えば「複数の男と女がグループ」で婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて採取狩猟時代から人類の間で歴史的に長く行われていた。
共生の為の「群れ社会」と言う特別の信用信頼関係を構築するには、特別の間柄が継続して実践証明し続けなくてはイケナイのだが、そうなると一夫一婦制の既成概念は取り払わなくてはいけない。
言ってしまえば、群れ内は「フリーセックス」と言う事に成る。
そして個別の二つの群れ同士の争いに解決方法は二つ、武器を持って争うか仲間として合流するかである。
(中略、引用終わり)

そして弥生時代には、2230年前ごろの徐福集団をはじめ渡来人は何度も日本にやってきました。
稲作を行なう彼らは私権性を帯びていましたが私権闘争の負け組であり、日本列島において私権闘争を全面的に展開しようとする意思は持っていなかったと思われます。
当時の渡来人が母系集団であったことが、その後の日本にとって極めて重要でした。
渡来人が、性を肯定視し性充足を重視する母系集団であったがゆえに、性を開放し共認によって統合された集団を維持している縄文集団に触れる中で、自分たちが目指す社会統合の方向性を改めて認識し、縄文社会の中に可能性を感じ取ったのではないかと思われます。
そして、支配層(渡来人)が被支配層(縄文人)に影響を受け、支配者が私権統合ではなく共認統合によって社会を統合していこうとする日本ならではの構造が生まれていきました。
例えば、弥生時代に異部族間での同類間闘争を止揚し闘争を顕在化させないために用いられた「誓約(うけい:混血による同類闘争止揚)」は、正にその事例です。
渡来人が日本を統合していく際に、この性充足の基盤を保持し共同体を維持することが安定した社会統合を実現する要であると気付き、村落共同体を安定して支配関係を築いていくことに成功したのだと思います。
4世紀ごろ秦氏が渡来し、神社の建築技術や祖霊信仰を広げる中で、各氏族は氏神を祀るために神社を作っていきましたが、古墳様式による氏族間のネットワークをベースとして、各氏族が祀るそれぞれの氏族の神を序列化し、ネットワーク化していったと思われます。
そして、元々集団統合の中心にあった性充足の場としての祭りをそのまま活かしながら、神社は集団における中心となっていきました。
それは各地の神社に伝わる性に関する行事や祭りから、うかがい知ることができます。
暗闇祭りhttp://jiyodan.exblog.jp/8274589
(Miracljoudan氏)からの引用です。

(以下引用)
そもそも日本列島の神・事代主(ことしろぬし)は、田の神(稲作神)である。
元々「命を生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。
日本の祭りのルーツは、夜祭「妙見祭」の北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、田の神(稲作神)・事代主(ことしろぬし)から始まった陰陽修験の影響を受けているから大抵豊年踊りの「暗闇乱交祭り文化」である。
何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭り(祀り)としての性交行事が認められていた。
(中略)
奈良県明日香村・飛鳥坐神社(あすかにおます神社)には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り(御田祭)」がある。
飛鳥坐神社(あすかにおます神社)の「御田祭(おんだ祭り)」は日本三大奇祭のひとつと呼ばれ奇祭扱いをされているが、これも明治維新の文明開化前は、広く「日本全国で、同様の祭礼をしていた」と言われる。
熊本県阿蘇地方では、おんだ祭り(御田植神幸式)になると新嫁に「おんだカタビラ」を与える風習があった。
つまり田植式(豊穣祈願)と子造りは「神聖な神事」として思想的に連動して考えられていた。
記紀(古事記・日本書紀)の記述からは「神懸かって舞った」と読める天宇受売命(アメノウズメノミコト)
は、神託の祭事を行なう巫女である。
列島の民(日本人)は、「先住民(縄文人)と渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命は渡来系弥生人だった。
神話においては、猿田彦が天孫降臨を感知して雲に上って上天し、「途中まで出迎えた(渡来を歓迎?)」とされ、その時天孫(渡来人・進入部族)は猿田彦に対し天宇受売命を「使者として交渉させた(誓約/うけい・性交による群れの一体化の儀)」と言う。
つまりこの夫婦(めおと)二神の役割もまた、「新旧民族の融和(誓約)の象徴」と言う訳で、性交は平和と信頼の肯定的な証だった。
この夫婦(めおと)二神が、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)に成り、後世に伝承される神楽舞の面(おもて)として残ったのである。
静岡県の伊豆稲取・どんつく神社の奇祭「どんつく祭り」は「二千年間続いて来た」と言われ、御神体は大きさ三メートルの男根型で、その御神体を載せた神輿を女性が担ぎ、神社(女性)へ向かい、どーんと突くから「どんつく」なのだそうである。
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写真はこちらからお借りしました。
  
夫婦和合、子孫繁栄を願うこのような祭りや御神体は全国各地にあり、愛知県は小牧、田懸(たがた)神社の豊年祭は、男達が男性器をかたどった神輿「大男茎形(おおおわせがた)」を担いで練り歩き、小ぶりな男性器をかたどったものを巫女たちが抱えて練り歩く。
田懸(たがた)神社の創建の年代は不詳だが、延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡 田縣神社」と有るからこちらもかなり古いものである。
また、大縣神社の「豊年祭(姫の宮祭り)」が田懸(たがた)神社の豊年祭と対になっており、こちらは女性器を型取ったものを巫女達が抱えて練り歩く。
新潟県長岡の諏訪神社 ・奇祭「ほだれ祭」の御神体も男根型である。
「ほだれ」は「穂垂れ」と書き、五穀豊穣や子宝を授かるなどを祈願するもので、神輿に鎮座した重量六百キロもある男根御神体の上には、新婚のうら若い女性が数名、男根型御神体を跨いで乗り、下来伝地区内を練り歩く。
長野県松本・美ヶ原温泉の薬師堂に男根型道祖神を祭り、祭礼には巨大な男根木像・御神体の御神輿を担いで練り歩「道祖神祭り」も有名である。
岩手県遠野の「金精様」とは豊饒と子孫繁栄のシンボルとして男性の性器をかたどった石や木を祀る民俗神で、この金勢様や金精様は全国に存在する。
(中略)
愛媛県上浮穴郡田渡村(現、小田町)の新田八幡宮は縁結びの神様で、毎年旧二月卯の日の祭礼の夜に、白い手拭をかぶって参詣する婦人は娘や人妻、未亡人の別なく「自由に交歓して良い」と言う事になっていた。
毎年六月五日に催され、奇祭として知られる京都・宇治の「県(あがた)祭り(暗闇祭り )」は、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。
県(あがた)神社は、古くは大和政権下に於ける宇治県主(うじあがたのぬし)に関係する神社と見られている。
その県(あがた)神社の祭礼「県(あがた)祭り」は暗闇祭りで俗に「種貰い祭」とも言われ、祭礼で行き会った多くの男女が性交に及び、妊娠すれば「神から子種をさずけられた」とした祭りだった。
西の京都・宇治「県(あがた)祭り(暗闇祭り )」に対して東の暗闇祭り (くらやみまつり)で有名なのは
、源頼義・義家の奥州征伐の「戦勝祈願に寄進した」とされる府中・大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の「暗闇祭り (くらやみまつり)」がある。
大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の祭神は大黒天(大国主)で、この三大奇祭の一つに数えられる神社は武蔵一の宮(総社)である。
この大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の暗闇祭り (くらやみまつり)は基本的に厳粛な神事として巫女舞神楽が舞われ、宮堂に選ばれた男女が御夜籠りして神を迎えようとする「祭事(さいじ)」である。
信仰を集めるには楽しみが必要で、神事の行われる真夜中の一定時刻には社地はもとより氏子の集落一帯は全部燈火を消し、雨戸を開放しておかねばならぬに約束事になっていた。
この祭りが「夜這い祭り」とも呼ばれ、昔は一般の男女参拝客はその祭りの期間だけ「暗闇の中での情交(夜這い)が許される」とされていた。
(以上引用終わり)

神に祈る場に性充足の場が重ねられているという構造は、古代から連綿と続いているものであり、神社の本質そのものなのです。
元々「祭り」は各集団の統合のためのものであり、性充足の場でもありました。
各集団が祀る自然神や祖霊神に出会う場がそれぞれの集団の祭りの場だったと思われますが、支配氏族はその場に後から神社を設置し、支配氏族が祀る祖霊神を土着の神の上に位置づけていきました。
渡来人が神社を構築していく際に、元々あった集団の性充足の場を壊さず、改めて神社の「祭り」として性充足の場を神社に組み込んで行ったことが、闘争、混乱することなしに支配関係を構築して共認統合社会を形成できた最大のポイントだったのではと思います。
さて次回は、性充足をベースとした神社ネットワークの上に、更に万世一系である天皇の皇統を塗り重ね、共認統合社会を実現していった流れを追ってみたいと思います。
お楽しみに。

投稿者 sinkawa : 2013年11月06日 List  

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