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2009年09月15日

国内最古のイスラム陶器出土!

「縄文と古代文明を探求しよう!」では、定期的に時事ネタを紹介してきたいと思います

時事ネタとは言っても10日程前のネタになりますが、今回は「国内最古のイスラム陶器出土」を紹介したいと思います。

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国内最古のイスラム陶器出土 海のシルクロードで伝来か

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平城京跡で見つかった国内最古のイスラム陶器のつぼの破片
3日午後、奈良市埋蔵文化調査センター

 平城京にあった西大寺旧境内(奈良市)で、西アジアのイスラム帝国、アッバース朝(750年成立)で生産された8世紀後半とみられるイスラム陶器のつぼの破片が見つかり、市埋蔵文化財調査センターが3日、発表した。

 古代の外交窓口だった福岡県の大宰府跡や鴻臚館跡の出土例を約1世紀さかのぼり、国内最古。海上交易を通じ、中国経由で持ち込まれたようで、森下恵介所長は「東西アジアをつなぐ『海のシルクロード』が平城京まで続いていたことを示す第一級の史料」としている。

 破片は19個で、旧境内を区画した溝から出土。外側は青緑色、内側は暗緑色で、ガラス質のうわぐすりが厚く塗られていた。「神護景雲二年」(768年)と記された木簡と一緒に見つかり、年代が分かった。

 つぼは復元すると高さ50センチ以上、底の直径11~12センチもある大型で、イスラム商人が西域特産の「乳香」「バラ水」といった香料やナツメヤシの実を入れて運んだ容器だったとみられる。

 西大寺は孝謙上皇(のちの称徳天皇)が764年に造営を開始。上皇の信任を得て、官の最高位に就き、意のままに政治をした僧道鏡とのかかわりが深い。つぼは、造営が一段落したころに捨てられたらしい。

 陸のシルクロードで伝来した宝物が数多く納められている正倉院にも、イスラム陶器はない。森下所長は「日本にない色合いで、珍重されたのだろう。西大寺は重要な寺で、天皇らが納めた可能性が高い」としている。

『47NEWS』より引用

通常、考えられるのはイスラムとの交易物(イスラム陶器)が、中国経由で日本に渡ってきたと考えられますが、実際はどうだったのでしょうか?

古代エジプトはプトレマイオス朝の時代(紀元前306年 – 紀元前30年)から、紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマはこの貿易路も継承して、南インドにアメリカドゥなどいくつかの商業拠点を築き、絹を求めて中国にまで達したことは中国史書にも記載されています。

モンスーンなどを利用した安全で効率のよい航路は、南シナ海経由で中国にまで延び、やがて海のシルクロードとして東西交易の重要ルートであったようです。
そして、2世紀半ばには当時のローマ皇帝の使者が航路を通って中国を訪れていたとされています。

これは、陸のシルクロードは諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのに対し、海のシルクロード、航路は安全で遮るものはなかったようです。

以上のようなことから、イスラム陶器は中国経由で日本に持ち込まれたのではなく、直接、海のシルクロードを渡って日本に持ち込まれた。つまり、イスラム商人と直接の交易があったとも考えられますし、もっと以前に持ち込まれていた可能性もあるように思います。

この辺りも今後の追求テーマの一つになるように思います。

投稿者 yoriya : 2009年09月15日 List  

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コメント

うろ覚えの情報で失礼しますが、
確か、明治時代でしたか、日本滞在記
みたいな書籍を出版された西洋の女性の
方の感想として、
{日本にはよい印象しかありませんが、特に
 目をひき印象に残ったのが、アイヌの方〃の
 澄んだ瞳と、西洋人のような端正な御顔立ち 
 だった}
とあったように記憶してます。
そう考えると、アイヌ人とは元々は、今のロシア方面から
南下されたのではと思いますがどうでしょう。

投稿者 スバール : 2009年11月15日 22:36

スバールさん、コメントありがとうございます。
アイヌ人の起源をこれから解明してきますが、今の仮説は
古モンゴロイドである縄文人に北方適応した新モンゴロイドがオホーツク文化の時代に混血してアイヌ人が形成されたものと思われます。
ただ混血したのは8世紀以降でそれまでの縄文時代の人種の長さからアイヌの心底には縄文的な要素が強く残存していると思われます。
スバールさんが仰るように間宮海峡を中心に混血部族は入ってきていますのでアイヌ=ロシア説は遠からずだと思います。

投稿者 tano : 2009年11月17日 19:20

アイヌは決してロシアからの南下人ではありません。
ムー大陸以前より昔、日本が天日根国と呼ばれて
おりましたころより以前より5色人の黄人(黄人と王人に分かれる)王人として、この全世界を導き、その上に立つ
指導的民として創られました。
昔この日本にいました本当の日本人です。
後の世になり、黄人(中国、韓国、モンゴル)の方々が
入り混血しまして、今の日本人がありますが、
それは神か人か判らない時代より
長い間、世界の人々の上に立ち
導いてきました尊き民族です。
ロシア人(青人)とはまったく違います。

投稿者 ス ヒ : 2010年8月20日 15:28

 クマソと言われた人びとが大和朝廷に滅ぼされ九州から琉球に本拠地を移しましたが民族としては関東以北の蝦夷やアイヌ、カムチャッカ半島まで居住していた民族と同一と考えています。
彼らの本質は正直で騙すことが出来ず計略に嵌りやすい性格でした。
日本列島北部から南進してきた民族で言語はアーリア系です。
縄文時代の住民であることは間違いなく、大和朝廷と激しく闘った民族故に悲しい歴史に包まれています。
樺太では南部に集中しておりカムチャッカ半島と千島列島では厳しい自然環境の為に人口密度はかなり低い状況でした。
ロシア政府による強制退去で今は北海道に僅かに居住しています。
元々は彼らの土地で彼らの国であったカムチャッカも千島列島も樺太も全てロシア人に巻き上げられた悲劇の民族です。
日本国内においても迫害と混血により可也減少してますが、誇り高き民俗であると認知しています。
栽培農業はしてましたが、主体は採集と狩猟であり、穀物栽培で人口密度が高く戦争が得意な民族ではなかったのが悲劇の原因で精神主義だけでは勝利できなかったようです。
部族間の戦争でも相手を屈服さすだけで征服や滅亡に追い込むことは無く他の野蛮な民族とは一線を画している感がします。
私の知人にも純粋なアイヌ人がいましたが、決して嘘を言わず抜群の頭脳を有してました。
容貌は完全に東洋人とは隔絶しており、アーリア人とも違った印象を受けました。
髪は黒かったのですが、たま~に眼が碧眼の人もいて奇異であるとともに女性の場合は魅力的でした。

投稿者 sivbikku : 2011年8月21日 18:58

 アイヌ人の生活と居住環境ですが、上川アイヌのように内陸適応した部族もいますが、主体は海洋民族で丸木船で外洋航海もこなし漁獲、狩猟と採集で食料を確保してましたが。
川沿いに内陸部進出、拡大し主な部落は河川周辺と湖の畔や貝類が豊富な海沿いにありました。
食料が豊富な季節に貯蔵する技術も卓越しており案外食べ物には困っていなかったかと考えています。
米作に適した照葉樹林帯では狩猟する獲物の密度も低く南進した九州では適合することが出来たと思っています。
従って西日本ではアイヌ人の人口密度がかなり低く揚子江流域から米の文化を持ち移住してきた人びととの確執は無かったか、少なかったと考えます。
少数派が人口で先住民を超える可能性は充分考えられ北九州から関東まで縄文人を構成したと仮定しても不自然ではないと思います。
しかしながら第3の縄文人がいるとすればどんな民族なのか古代にロマンを抱きます。

投稿者 sivbikku : 2011年8月21日 21:34

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