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2010年11月22日

日本人の起源8 「倭人」とは華南の「越人」のことである

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前回の「日本人の起源(7) 渡来人の出自」では、弥生時代の渡来人は1度に来たのではなく、約3000年前に第1波が中国大陸華南地方から入り農耕を持ち込み(苗族)、弥生時代後半に第2波が朝鮮半島から入りより強い私権性を持ち込み、縄文人と融合しながら日本人が形成されていった、という記事をお届けしました。
  
  
続いて8回目の今回は、第2波の渡来人:中国華南地方から朝鮮半島そして日本へと、大陸の春秋戦国時代の玉突きによって押し出されていった人々こそが【倭人】であり、そのルーツは越にある、という記事をお送りしたいと思います。
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るいネットの記事、「古代朝鮮の歴史と移民の流れ(2)~倭人とは華南の越人の事である。」
からの引用です。
  

「古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン」前稿に引き続き掲載させていただきます。
mansongeの「ニッポン民俗学」
▼韓民族の「辰国」と「倭人」の登場
 次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。
  
  
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 彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。
 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。
  
  
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 「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。(続く)

  
    
続いて、本ブログ、2008年9月15日のHiroshiさんの記事
「日本人の起源:“倭人”のルーツは中国大陸の呉・越」
からの引用です。

いままで、遅れて国家を作ったはずの日本が、朝鮮半島に任那日本府とかの領土があるって変だな思っていたのですが、このように逆に倭人のルーツが大陸と朝鮮半島にあったと考えるとすっきりすると思う。
こうして日本人の起源を捉え直すと、
倭人とは中国の南方から海伝いに朝鮮半島、そして日本列島に広く分布していた。
韓人(朝鮮半島の倭人)はその後、北方から侵入してきたツングース系の遊牧民族と混交し、現代の朝鮮人となった。
日本列島では、それまで住んでいた縄文人(これも南方系+一部北方モンゴロイドの混交)と倭人が混交し、さらにその後、古墳時代以降に朝鮮経由でやってきた北方系の部族も混じって現在の日本人が形成された。
これらは、現在の日本人の地域による多様性にもくっきり残っています。近畿・瀬戸内には朝鮮半島に近い人種的特徴を持ち、九州や東北など列島の端に行くほど縄文(弥生も?)の人種的特徴を残している。

  
  
春秋時代の紀元前5世紀前半に呉が滅亡し、越が北上して勢力を拡大し華南の人々は朝鮮半島に逃れて行きました。
その後、前334年には越が楚によって滅ぼされ、越人たちは朝鮮半島へと逃れ韓人となり、さらに海を渡って日本に逃れて行きました。彼らが「倭人」と呼ばれた人々の正体で、決して日本古来の人々ではなかったのです。
弥生渡来人の第1波(気候変動により押し出されていった)から1000年近い大陸での私権闘争を経てから押し出されていった越人=「倭人」は、その後日本において古墳時代の基礎を作り、統合国家への道を歩み始めます。
ここで着目すべきは、長く私権闘争を闘ってきた越人=「倭人」たちが、日本においては縄文気質を残しつつ融合していく点です。ここが日本人の起源のポイントだと思われます。
  
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一度に渡ってきた倭人の数はそれほど多くはないとの説もあり、(弥生時代を通じて年平均50~100人程度:「08.弥生時代の渡来人の規模」からの引用 )、また水利含め農耕という生産様式には共同体的体制が最も適しており、それが日本には残っていたことを利用していった(華南や朝鮮半島では破壊されていた)のではないかと考えられます。

投稿者 sinkawa : 2010年11月22日 List  

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