| メイン |

2008年05月21日

弥生社会はどのように縄文人を巻き込んだか

前投稿の続きです。
同じく、藤尾慎一郎氏のHPから紹介します。
>弥生Ⅰ期以降におこった狩猟採集民の農耕民化と位置づけた四箇遺跡タイプの出現過程は,早期のそれとはいろいろな面で異なっている。
まず狩猟採集民は後・晩期以来の土地で農耕民化することである。彼らは水田にするには好条件の場所をもちながら,長い間,水稲農耕に専業化しなかった。もし後・晩期のコメづくりを認めるとすればその期間は1200年もの長きに及ぶ。
しかしⅠ期になると情勢の変化が下流域から訪れる。
 

 にほんブログ村 歴史ブログへ


早期に下流域に進出していた農耕民がどのくらいコメを食べていたのか議論は分かれるが,コメという栄養に優れた食品に依存していたこともあって,乳幼児の死亡率が低いために人口増加率が高い。早期新段階には増えた人口を養うために当時の技術で開発可能な下流域の可耕地はすでに開発しつくされ,すでに飽和状態にあったと考えられている。
 下流域の農耕民がさらなる人口増加に対処するためには,中・上流域,もしくは福岡平野以外に可耕地の拡大を求めるようになったことは十分に考えられる。すると下流域の農耕民同士の競争に加えて新たに目をつけた場所にもとから住んでいた狩猟採集民との間で資源をめぐる競争も始まり,緊張関係が顕著になってくる
弥生時代の戦いがこの頃からはじまることが知られているが,戦いで死んだと考えられる犠牲者の分布が,玄界灘沿岸部から内陸部や遠賀川下流域に向かって時期をおうごとに増えてくる事実からも下流域から中・上流域へと緊張関係が高まっていったことはある程度予測できる。
 生産基盤を異にする二つの集団が競争関係にはいると,人口の多い集団が優位にたつのは想像に難くない。もし狩猟採集民がそのままの状態を続けていれば彼らが食料を獲得していた森などの生産基盤は水田へと変わり,食料の調達が難しくなる。このような情勢を挽回する方法の一つは生産基盤を同じくして競争にのぞむことである。中流域の狩猟採集民がこの時期に農耕民化する理由の一つとしてこのような状況を想定できないだろうか。
渡来人発~下流域からの農耕化→人口の増加→上流域の農耕拡大→狩猟採取集落の近接→緊張関係の増大→縄文人の農耕民化(弥生時代の農耕化のパターン)
以下はそれをさらにまとめています。
>福岡平野における農耕民化過程を三つ設定し,その過程と要因について考えた。

第一のケースは,在来の狩猟採集民と渡来系の農耕民が早期古段階に,それまで在来人があまり利用していなかった下流域で,一緒に集落をつくって水田稲作に専業化することによって進行した農耕民化過程である。この理由を狩猟採集民と農耕民との利害の一致に求め,ともに一つの生活集団を構成するにいたった可能性を指摘した。この場合,狩猟採集民,農耕民の双方が独自の目的を持っていたという意味で相互依存的であるから,縄文人主体論や渡来人主体論は成り立ちがたい。

 

第二のケースはそうして形成された農耕集団が農耕社会化していくなかで二つの異なる展開の仕方があったことである。一つは環壕集落を形成して地域の拠点集落となり,その後も地域の核として発展し有力首長を生み出していく板付タイプの集団で,板付Ⅰ式甕の生産と供給をになった可能性のあることを指摘した。もう一つは,板付Ⅰ式をもたず,集落を廃絶し,どこかへ移動するか,板付Ⅰ式の供給を受けて存続した可能性のある那珂タイプの集団であった。このような差異が生じる理由として各集団と渡来人との密接度,生産基盤の違いに基づく集団の生産力そして土器を生産するムラと供給を受けるムラという分業制などを想定した。この場合も縄文人や渡来人の片方だけの役割を強調して説明できる問題ではなく,主体論は成り立ちがたい

 

第三のケースが,もっとも遅れて縄文以来の土地で農耕民化した四箇タイプの出現過程である。この過程は下流域に占地する農耕民集団が人口増加によって不足した食料を生産するための新たな可耕地を,中・上流域にある狩猟採集民のテリトリーに求めたことによっておこる。狩猟採集民側にとっては生活環境の破壊に対抗するための処置として理解した。この場合はきっかけを作ったのが農耕民,主人公は狩猟採集民で,やはり片方の主体性だけで理解できないことは明らかである。

 
これら三つのケースは,農耕民化する時期と順番を異にしたという点では,農耕民化の先発組,後発組という捉え方もできるし,農耕民化した理由を考えると,自発的に農耕民化した狩猟採集民と,抜き差しならない状況に追い込まれて農耕民化した狩猟採集民という見方もできる。
 しかし三ケースとも直接的,間接的な違いはあっても在来人と渡来人の双方が,ある目的をもってともに生活集団を作り,農耕社会化への道を歩み始めるという協同的なものであった。決してどちらか一方の主体性で進行した現象ではないのである

農耕社会への転換が決して弥生人だけが仕掛けたものでないことを著者は示しています。
しかし、弥生人発で始まった小さな生産革命も2世代、3世代と続く中で、生存粋を追われ、縄文人は最早、農耕社会化という流れを食い留めることはできなかったのでしょう。

投稿者 tano : 2008年05月21日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/05/513.html/trackback

コメントしてください

*