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2008年05月22日

縄文と弥生の境目:共存のディテール

tanoさんの投稿に続きます。
どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのだろうか。?
 これは今のところ有力な根拠とされているのは、発掘される土器や稲作をしていたかどうかだそうです。
土器は縄文時代を通しての芸術性豊かなものから、弥生時代には実用本位のシンプルなものに大きく変化します。
また、鉄器も登場し時を同じくして稲作が盛んになっています。
しかし、稲作が始まったのは縄文からと言う説があるくらい所によっては古くから作られていたようです。
今日は私がよく見ている産経ニュースの-文化-学術-に「試行私考 日本人解剖」と言うシリーズがあります。
今回はここからお借りして縄文から弥生へ移行していった詳細をお届けします。
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【九州の縄文系弥生人(左)と渡来系弥生人(右):土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムより】
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≪縄文の壁≫
 渡来系弥生人と在来の縄文人はどのように接触したのだろうか。
まず、日本列島での水田稲作の伝わり方から探ってみたい。
 国立歴史民俗博物館が実施したAMS-炭素14年代測定法による調査では、水田稲作が最初に
北部九州に伝えられたのは紀元前10世紀後半。
その後、南関東に広まるまでに700~800年の年月を要した。
この「過渡期」に、新しい文化を持つ渡来系弥生人と伝統的な文化を守る縄文人という、異質な
集団が同じ地域で並存していた。
 四国・高知平野の紀元前800年ごろの田村遺跡(高知県南国市)では、縄文の祭りを行わない
集団が突然現れ、水田稲作を開始。一方で、約25キロ西に位置する縄文以来の伝統的集落の
居徳遺跡(同県土佐市)では、田村遺跡にわずかに遅れて水田稲作を始めたものの、土器には
縄文の色彩を強く残していた。
 
 小林青樹・国学院大栃木短大准教授は「在来縄文系集団が信仰や社会の違いを克服して
“弥生人”になるためには相当の決心が必要だった。水田稲作が広まる過程には、精神や社会の
あり方の面で目に見えない『縄文の壁』があった」と分析する。
≪受け継がれた祭祀≫
 「縄文の壁」は弥生化の“障害”になったと同時に、新しい文化を消化して受け入れる時間を
縄文人に与えたのかもしれない。
 弥生文化は紀元前700年ごろ中四国全域に広まり、紀元前600年に大阪平野に到達する。
 近畿で最古級の本格的弥生集落跡の田井中遺跡(大阪府八尾市)では、縄文系の「長原式土器」
主体の居住区と、弥生系の「遠賀川(おんががわ)系土器」主体の居住区が出土。近畿ではこのような
縄文文化と渡来系弥生文化の共存状態がこの年代から約100年間続いたとみられる。
 しかも同遺跡では、縄文の祭祀(さいし)に使われたといわれる石棒(せきぼう)と土偶が、双方の
居住区から見つかっている。大阪府文化財センター京阪調査事務所の秋山浩三・調査第二係長は
「縄文系、弥生系どちらの集落でも石棒や土偶を所有し、共通の祭祀を行っていたことから、両者の
関係は良好だったようだ」
と話す。
 弥生早期~前期に九州などでみられる磨製石剣が朝鮮半島の影響が強いのに対し、石棒は
在来縄文系集団に特有だ。小林准教授は「銅鐸も祭祀に使われ、『(銅剣文化圏の)九州とは違う』
という近畿中心の文化圏のシンボルだった。石棒と分布圏が一致し、銅鐸には縄文系の模様も
付けられていることから、縄文祭祀が受け継がれた可能性は高い」と解釈する。近畿では、縄文系
集団が主体的に「縄文の壁」を乗り越えて弥生化したのかもしれない。
≪移民が与えた衝撃≫
 近畿一円に広まった水田稲作は、紀元前400年ごろに尾張平野まで達して「縄文の壁」に突き当たる。
このころの日本列島は、西日本の弥生文化と東日本の縄文文化に二分される。
  小林准教授は弥生前期末(紀元前400年ごろ)から東北南部~東海・長野県域に分布した
「再葬墓」に着目する。再葬墓とは、遺体をいったん埋葬し白骨化した後に壼などに納めたもの。
「縄文後半の骨を焼く風習が起源。
小規模な集団で分散して生活していた人々が、骨壼を持ち寄り共通の祖先のもとに集まっていた。
この時期も、関東の集団は縄文祭祀を色濃く受け継いでいた」
 
 東海~甲信に水田がつくられ始めるのは紀元前300~200年ごろで、同じ時期に南関東の
中里遺跡(神奈川県小田原市)に本格的な水田稲作の集落が出現。水田稲作はまもなく、利根川
のラインまで達するが、弥生時代の間は利根川を越えない。
 再葬墓は、中里遺跡の出現以降に急速に姿を消す。同遺跡はそれまでの関東にない大規模な
環濠(かんごう)集落で、この地域の弥生化が劇的に始まったことをうかがわせる。さらに、瀬戸内
東部で作られたと推定される弥生土器の破片が出土。発掘にあたった玉川文化財研究所は「土器
70~80個分に相当し、瀬戸内の集団が移住して持ち込んだ」と話す。
以上が抜粋です。
こうしてみていくと生活や生産様式など縄文の文化はかなり長い年月を掛けて弥生の文化に移行
しています.。紀元前1000年頃の九州を起点とした弥生文化が本州の関西に定着するまでにおよそ
400年から500年かかっており、関東ともなるともっと長くて900年ほどかかっている。
また北海道を見てみると、弥生文化はほとんど入り込んでいないようです。
文化がこんなに長時間かかって替わっていると言うことは、社会統合という視点で見ると、強い力で
統合されたのではなく縄文人と弥生人は共存し環境の変化に合わせて(必要性に応じて)生産手段
等を変えていったとも考えられます。そう考えると縄文と弥生の境目は無いともいえます。

投稿者 mukai : 2008年05月22日 List  

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