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2008年11月19日

日本民族の形成は北方系渡来人によりなされた

simasanの『日本の私権制は、弥生後期の北方民族の襲来によって確立された!』と言う投稿で
日本人は、概ね北方系が7~8割、南方系が2~3割と紹介されています。
又別の投稿でDNA研究からも同様なことが言われています。
縄文人とは大きく異なった「面長(高顔)・高身長」という特徴を持つ北部九州・山口型弥生人。
同じ特徴を持つ同時期の古人骨が中国・山東省や江南地方から見つかり、大陸か渡来してきた集団と考えられることは色々紹介されています。
弥生時代の初期に大陸から日本列島にやってきて、縄文系在来人と混血しながら人口を増やし、全国に拡散したと考えられている渡来系集団だが果してそうなのだろうか?
調べていくと弥生時代後期(邪馬台国の時代)から古墳時代を通じて人口が爆発的に増加しています。
このあたりに答えがありそうです。
この投稿は「【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(4)」から抜粋させていただきました。
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 当時の列島(北海道・南西諸島をのぞく)の人口をみてみよう。上の表は、小山修三・国立民族学博物館名誉教授が、住居遺構の数などから推計した縄文~弥生時代の人口推移と、戸籍残簡などから計算された奈良時代(8世紀)の人口だ(鬼頭宏・上智大教授著『人口で見る日本史』から)。
 縄文晩期の7万6000人から弥生時代(1800年前)は59万5000人、奈良時代(8世紀)には451万人と、爆発的に増えている。
この人口爆発について、「二重構造論」を提唱した人類学者の埴原和郎・東大教授(故人)は、 「弥生時代以降に100万人規模が大陸から渡来したことが可能にした」と唱えた。
しかし、少数渡来説が優勢な考古学者からは、埴原説は支持されなかった。
 渡来初期の窓口である北部九州の遺跡では、土器の大半は縄文式で弥生土器は全体の1割程度。
弥生時代を通しても大陸系の物品が急増して見つかる遺跡はなく、少数集団が数次に分かれて渡来してきたと考えられるためだ。
■渡来系急増で縄文的形質が薄くなる
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 図1は、土肥直美・琉球大准教授が田中良之・九州大大学院教授と共同で、渡来系弥生人の遺伝的形質の筑前(福岡市周辺)からの拡散状況を弥生~古墳時代の人骨で統計的に調べたものです。
各地域の人骨の渡来人的形質の度合を示したのが縦軸。
 上方ほど「面長」といった渡来人的特徴が色濃くなる。
逆に下方ほど渡来系の形質が薄く、縄文的特徴の濃い形質となる。
横軸は各地域の人骨が出土した遺跡群までの博多駅(福岡市)からの鉄道距離の平均値を示している。
 土肥准教授によれば、 山陰や近畿地方は、豊後(大分地方)や南九州と比べて筑前から遠いわりには渡来系の形質が色濃く、渡来人の遺伝的形質は北部九州から東(本州)へと偏って拡散したことが分かる。
 「結婚などによって形質が自然に広がったのではなく、集団が移住してきた可能性が強い」。近畿地方で渡来系の特徴が上昇するのは、もう一つの拡散の中心地だった可能性を示唆しているほか、北部九州以上に渡来的特徴が色濃い古浦(島根県)には、北部九州系とは異なる集団が渡来していたとも考えられるという。
 一方、弥生人が西北九州に向かう海岸ルート(A)や豊後という山間部に向かったルート(B)に比べてカーブの傾斜が緩やかなCは、豊前(福岡~大分)という平野部を通って東九州を南下するルート。緩やかな傾斜は、広範囲な拡散が行われたことを示し、「渡来人的形質は稲作に適した平野部に向かって広がったと考察される」と土肥准教授。
 図1では、渡来系弥生集団やその子孫の古墳時代人の形質が、近畿地方などを除き、大陸からの窓口になった北部九州(筑前)から遠方へと拡散するにつれて渡来人的特徴が弱まる傾向も読み取れる。土肥准教授は「在来縄文系の人たちとの混血が影響していると思われる」と話す。
 ヒトの「姿かたち」という属性は、単一ではなく複数の遺伝子の影響で決まるとされる。
こうした遺伝的属性の異なる集団間で混血が起きると、次の世代の属性は、平均すると両集団の中間になると考えられている。集団の規模によって影響度は違ってくるが、第二世代以降の全員に一方の集団の特徴だけが現れたり、一方の特徴がなくなったりすることは考えにくい。

 図2は、百々幸雄・北海道文教大教授が、頭骨の「形態小変異」22項目に基づいて、各時代の列島集団(一部は大陸集団)の遺伝的な類縁関係を調べたもの。形態小変異は体の機能には影響のない微細な形態の変異で、頭骨に無数にある。人骨の形質は遺伝だけではなく環境にも左右されるが、形態小変異は遺伝的影響が強い。
 それによると、すべての集団が、縄文人的な形質が色濃い北海道アイヌを含めた縄文グループと、渡来系弥生人(土井ケ浜弥生人・金隈弥生人)を含むグループに大別される。
弥生時代から現代までのすべての時代の日本人が、後者のグループに属すことから、 「渡来人、特に金隈遺跡(福岡市博多区)など北部九州の渡来系弥生人はその後の日本人と強い遺伝的類縁関係にあり、現代人の祖先集団の中心だったとみられる」。
 これまでみたように、弥生中期までの渡来系集団の人口増加率は年1~3%と推定され、縄文人の10倍。弥生時代の縄文系集団が水稲農耕を営んで栄養事情が改善されたとしても、「慣習や文化的要因もあって、寿命や人口増加率が飛躍的に伸びたとは考えにくい」(中橋孝博・九州大大学院教授)。
このため、 「渡来系の特徴を強くもつ人口が一気に増えて縄文集団の遺伝的影響がほとんどなくなり、その後の集団の形質と大きく異なってしまったのだろう」 と百々教授。
形質でみると、縄文人は、渡来系弥生人と比べて「はるかに遠い」祖先なのだ。

投稿者 mukai : 2008年11月19日 List  

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コメント

凄く充実しているブログですね。歴史は苦手だったのですが、縄文時代だけを見てもこれだけ考えられ想像させられます。
 昔の人が「種の保存」を考えていたというようですが、自然と考えるようになったのでしょうか。変な疑問ですが…。今を生きる私は、種の保存のために子どもをなんて考えられません。今の家族感など対比して考えると興味深いです。

投稿者 編集部.K : 2008年12月2日 21:04

編集部.Kさん
コメントありがとうございます!
>凄く充実しているブログですね。歴史は苦手だったのですが、縄文時代だけを見てもこれだけ考えられ想像させられます。
こう評価頂けると嬉しいです。歴史をこのような実感を持っていけると良いと思い追求しています。
>昔の人が「種の保存」を考えていたというようですが、自然と考えるようになったのでしょうか。
当時の縄文人になったつもりで(なかなかなれないですが^^;)…恐らく、今の私たちの生活よりも格段に厳しかったのだと思います。「種の保存」という明確な言葉ではないですが、子孫をいかに残し存続させていくか?それは、きっと強い意識としてあったのだと思います。

投稿者 さーね : 2008年12月3日 01:29

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