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2009年02月13日

邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-2 朝鮮半島説での行程問題

😀 くまなです。
邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-1 倭国は朝鮮半島にあったでは、倭国の所在地について、山形明郷氏の朝鮮半島説を紹介しました。その著書は「邪馬台国論争 終結宣言」です。
その中で、魏志倭人伝の行程問題について課題が残りました。
行程問題とは、魏志倭人伝に記述された帯方郡(魏の領土)から倭国の国々や邪馬台国への行程が記された部分の解釈をめぐる問題です。その定説について詳しくはnaotoさんの邪馬台国ってどこにあるの?・・・近畿説と九州説やウィキペディアの邪馬台国を参照してください。
山形氏は、邪馬台国について書かれている当の魏志倭人伝をほとんど扱っていません。なぜなのでしょうか。魏志倭人伝及びその行程問題に対する山形氏の考え方が「邪馬台・其の国名と実像推測」の中で述べられています。以下がその引用です。

 抑々(そもそも)『倭人傳』と称されるものが研究なされるようになって、可成(かなり)久しい年月を閲(けみ)して来た筈であるが、その間にも、優秀であるべき頭脳陣が、雁首揃えて研究に取組み、過去現在、多少なりとも納得出来る史的見解が披瀝されたであろうか、推理小説まがいの説は雑多に輩出しているが、文献史学的に真面(まとも)に受取れる様な説は、今日に至るまで出ていない筈である。
 最近では吉野ヶ里遺跡に代表される如く、各地で我が国古代の遺趾遺構(いしいこう)が発掘されるたび、各人各様の立場から、如何にして「邪馬台国」と結びつけて語れるかと云う事にのみ齷齪(あくせく)している様だが、最早(もはや)、こうなると里程も方角も糞もへったくれもあるまい。研究年月を費やしているにも拘らず、結論が出ないと云う事は、『倭人傳』の記述そのものに信憑性がないと云う事と、又、その信憑性のない文献記述中から、多少なりとも史実臭のする残片を読取る為に必要な知識が、判読する側に無いとしたら、所詮は「千年、河清(かせい)を俟(ま)つ」の類(たぐい)的研究でしかないであろう。ましてや、我が国古代史の一端でもないものを、何を勘違いしたのか、日本国内に位置づけて語り出した為、三百年たった今日に至っても結論の出ない所以(ゆえん)の一つと云える。過去の儒教かぶれの学者の弊害を、現在に引き摺っているのがアカデミストと云う階層である。千九百七十九年と記憶するが、倭人伝に関する北京大学の見解は「かなり杜撰であり、方角里程等については信憑性が全くなし」であった。

痛烈です。
そんな山形氏も、帯方郡の所在地について検証するために魏志倭人伝の行程について扱っています。しかし、そのことで朝鮮半島説がおかしなことになっています。
行程問題をどのように扱っているのでしょうか。
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山形氏は倭人伝の次の記述を引用し、出発地の帯方郡から最初に到着する「倭国の北岸」である狗邪韓国までの行程についての見解を述べています。
倭人は帯方の東南、大海中に在り、山島に依って国邑を為す。もと百余国、漢の時、朝見する者あり。いま使譯(しえき)の通ずる所三十国。郡より倭に至るに、海岸に循(したが)い水行し、韓国を歴(へ)るに、乍(たちま)ち南し乍ち東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」(『魏志倭人傳』)
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(「邪馬台国論争 終結宣言」より)
■帯方郡から南に七千里航行すると狗邪韓国に至る

郡とは、即ち「帯方郡」を謂う。この郡より倭国に往くには、海岸線に沿って航行し「韓国を歴るに…」であるから、既に韓国を通過した事になる。韓の地を通過し「乍ち南し、乍ち東し」であるから、これは航行の針路を幾たびとなく目まぐるしく変更させ乍(なが)らの意味となる。斯くの如くして航行して来ると、やがて到達する所が「其の北岸、狗邪韓国」となるわけである。

■慶尚南道の釜山はその北岸にふさわしい

だが、此の国邑に就(つい)て、我が国の史家達の一般的見解に拠ると、それは現在の慶尚南道(けいしょうなんどう)の釜山金海(ふざんきんかい)地方、或は馬山辺と謂われている。然り、とするならば、帯方を出向した倭国便は、更に南下航行し、複雑な湾岸線をぬって、多分、釜山湾方面へでも辿りついた事になろうか。其の周辺一帯ならば、朝鮮海峡の北であるから、確に「其(その)北岸」と見るには相応しい所と云えよう。だが、その何れなろうとも、ここでは「狗邪韓」穿鑿(せんさく)が主目的ではないゆえ、その究明は他に譲ろう。

 ※此の国邑=狗邪韓国
■七千里は現在の二千キロ以上。厖大すぎる。

ところで、残る問題は帯方郡より倭の北岸の狗邪韓に至るまでの「七千余里」である。此の里数を真面(まとも)に受けとめて、三世紀頃の尺度で換算してみると二千六百二十五粁(キロ)、又、歩弓(ほきゅう)で計算すると約二十六糎(センチ)が二尺、その四倍が一弓(いっきゅう)、而して又、その三百倍が一支里(いちしり)、故に「七千里」と云う事は二千百八十四粁となり、その何れをとっても、帯方郡の置かれた遼東半島方面から現韓国慶尚南道方面へ至る距離数としては厖大(ぼうだい)すぎる。
(中略)
 此の里数の問題に関しては、旧来より各種の意見が出されて来た様だが、未だ納得出来るほどの答は出ていない。だが、本論では次の記述を以て釈明しておきたい。

■航行の里程は日数で計る。

即ち『明史巻三百二十二』中に、古代の海道里程に関して左の如く記している。「蓋(けだ)し、海道は里を以て計るべからず。舟人(しゅうじん)は一昼夜を分ちて十更(こう)となす。ゆえに、更(こう)を以て道里を計ると云う。」古代の海道(水行)里程の計算は、陸路の里程に規準を求める事は出来ない。何故ならば、往時の舟乗達は、時間の経過で里数を割出したと謂う。即ち一昼夜を十等分、十更(じゅっこう)となし、その十分の一の一更(いっこう)、即ち二・四時間が経過したから何里何十里と云う様に計ったと謂う。

■航行(水行)の七年里とは四十六日から七十日

「水行の程、舟の重きは河を泝(さかのぼ)ること日に三十里、江四十里。…沿流の舟なれば則ち同制(どうせい)、河は日に百五十里、江は一百里、余水は七十里なり。」(『唐六典・尚書戸部巻第三』)
唐代の官吏が舟を使って出張する時に要する水路里程の規準であるが、右の記述中の沿岸航行の規準で、先の「七千里」を計算してみると、一日百五十里で約四十六日位で「七千里」となり、又、一日百里で計算してみると二ヶ月と十日で丁度「七千里」となる。

■隋の時代、百済から済州島まで三ヶ月かかった

倭国往きの舟が、帯方郡の何処から出航したのか分からぬが、仮に、古代から良港として知られる遼寧省営口市から出航したと推測し、「狗邪韓国」が存在したと謂われる現韓国慶尚南道方面に到るまで、古事、どの位の日数が掛かったであろうか。『隋書巻八十一列傳第四十六百済傳』に拠ると、「その南、海行三月、た牟羅国あり…」とある。

 ※その=百済、た牟羅国=済州島。山形説では百済建国の地は遼東半島。
■百済(遼東半島)から全羅南道まで七十日=七千里

隋書の記載によると、古事、遼東半島方面から韓国の済州島まで三ヶ月かかった事になる。左記に『唐六典』の記す所に拠って計算した中(うち)の下りの水行一日百里の規定で判断すると、韓国の全羅南道方面に入った段階で既に「七千里」に達した事になる。全羅南道からは目と鼻の先の済州島まで二十日はかからないと思うが、仮に、二十日位は経過したとするならば、隋書記載の通り、まさに、百済の南からた牟羅国(遼東半島方面から済州島)まで三ヶ月はかかった事になる。

つまり、帯方郡(遼東半島)から狗邪韓国(朝鮮半島南端)まで船で七十日かかり、これを魏志倭人伝では七千余里と換算しているということです。
これによって、帯方郡が遼東半島にあったという説は魏志倭人伝の行程の記述に照らしても正しいと論証されています。
狗邪韓国が朝鮮半島の南端付近にあり、そこが倭国の北岸であったとなると、倭国はその南側一帯に広がっていたことになります。
ここで倭人伝にある邪馬台国までの行程を見てください。
【帯方郡】
  |
(循海岸水行、乍南乍東、七千余里)
  ↓
【狗邪韓國】
  |
(始度一海千余里)
  ↓
【對海國】
  |
(又南渡一海千余里)
  ↓
【一大國】
  |
(又渡一海千余里)
  ↓
【末盧國】
  |
(東南陸行五百里)
  ↓
【伊都國】…【奴國】…【不彌國】…【投馬國】…【邪馬台国】
※伊都國以降は、解釈に諸説あるので里程・方角は示さず。
魏志倭人伝によると、朝鮮半島南端付近の狗邪韓国(下図の金海や釜山あたり)から初めて海を渡り千里いくと「對海國」があり、また南に海を渡り千里いくと「一大國」があり、また海を渡り千里いくと「末盧國」があることになっています。末盧國のあとは陸路です。
地図を見るとわかるように、「對海國」は対馬、「一大國」は壱岐、「末盧國」を九州の北岸あたりとみるとほぼ当てはまります。
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一大率・難升米の読み方と白日別の意味」より
つまり、倭国は朝鮮半島から日本列島にかけて広い範囲で存在したということです。
山形説と魏志倭人伝を合わせてみると、邪馬台国が治めた国々は九州あたりにあったことになりそうです。
しかし、まだ結論とするには早いのです。
なぜなら山形説は邪馬台国が朝鮮半島北部にあったとしているからです
次回は、その解明をします。

投稿者 kumana : 2009年02月13日 List  

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コメント

HP紹介です。もうご存知かもしれませんが、
「日本人の起源」さん
http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html
第1部 最初の日本人の系譜
第2部 縄文稲作の究明
第3部 弥生文化と渡来人の登場
第4部  邪馬台国から大和朝廷へ
第5部  神々の故郷と子孫たち
分かりやすい構成と豊富な図版で魅せてくれます。

投稿者 Hiroshi : 2009年3月8日 15:23

HP紹介です。「日本史授業拾遺」
http://www3.oninet.ne.jp/i_gokan/PRINT/index.htm
力作です。高校の先生のHPなのですが、基本的な日本史の流れからこの間追求している古墳や天皇家の流れまでベーシックな押さえに非常に役に立ちます。
先生のプロフィールも入っていたので紹介しておきます。
☆岡山県立岡山朝日高等学校教諭
☆後神 泉(ごかん いづみ)さん
☆40歳
☆本年度の担当教科・科目 地理歴史科・日本史B
一応は考古学、最近は博物館学、学校教育史にも興味あり
特に古墳史の特徴はかなり勉強になります。↓
http://www3.oninet.ne.jp/i_gokan/PRINT/04_kofun.htm

投稿者 tano : 2009年3月8日 17:36

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