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2008年11月14日

神功皇后の新羅征討とは何か?

古事記、日本書紀の違いが新羅の扱いの差にあることは既に明らかになってきたポイントであるが、この新羅の扱いの違いは古くは神功皇后にまで遡る。
当時(4世紀)の時代状況を整理してみましょう。
北方から新興匈奴(前趙)→侵攻・征服→西晋朝
    ↓               ↓
華北には五胡十六国が建国   東晋朝に交替も弱体化────┐
    ↓               ↓        │
高句麗を圧迫   朝鮮半島南方の楽浪郡・帯方郡は空白化  連携強化
    ↓               ↓        │
高句麗が南下──────→激突← 南から百済 ←──────┘
    ↑               │
後発の新羅は応援            │
    └───────┬───────┘ 
            ↓
        敗北集団が日本列島へ
さて、この状況下で記紀は「オキナガタラヒメ(神功皇后)の新羅征討」の記事を載せているが、古事記と日本書紀では微妙にその表現が異なる。では記紀の記述はどのように異なっているか。

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 『古事記』の場合、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。
これに対して、『日本書紀』の場合、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。

この違いをどう理解するか古田武彦氏の分析をブログ「自由のための不定期便」さんが紹介してくださっている。
>九州において、熊曽国に勝てなかったのが(ヤマト王朝の)実体だったことはすでにのべた。その、仲哀亡きあとの神功が、朝鮮半島で威名をとどろかしたなどとは、おこがましい。非現実的だ。
>では、なぜ神功は半島へと敗軍を導いたのか。それは、彼女の系譜を見ると、判明する。応神記に「天之日矛」の系譜として描かれている。つまり、神功は、新羅の王子だった天之日矛の子孫に当っている。新羅は彼女にとって、(母系の)父祖の国だったのである。彼女が九州に行ってその地へ行くことを望み、さらに夫(仲哀)の死後、一段と(自分の自由意思が主導できる状態下で)その地に行くことを欲したのは偶然ではなかった。彼女はその故国へ、征伐などに行ったのではない。提携と国交を求めに行き、新羅および百済との間で、それに成功したものと思われる。

ポイントは、神功皇后は新羅から日本へ降り立った新羅王「天日矛」の末裔であるというところにある。おそらく、半島出身である神功皇后は日本へ降り立ったものの、熊襲らにてこずり、ひとたび退却し、新羅、百済と対日本攻略について共同戦線をはることに合意したのであろう。
日本書紀はのちの百済系によって新羅を悪者視する傾向があるため、新羅出身の神功の新羅攻撃、百済への領地拡大というストーリーになっているのであろう。しかし、もともと新羅出身の神功が百済の領地拡大ために戦うというのは明らかに矛盾しており、ここは古事記の方が正しいと考えるしかない。
この記紀相違分析を踏まえると、新羅系はもともと百済系と協調して日本へ入ってきたが、次第に百済系が新羅系を体制の中心から排除していったということではないか。
つまり新羅は後発であったが故に、初期は百済とも協調路線をとるしかなかなく、日本に逃げ延びた百済勢力もそれを受け入れた。しかし次第に勢力を拡大していった新羅本国の情勢を見て、百済勢力がおそれを抱き、排除に入った。そう理解すれば「天智天皇の天武天皇に対する異常なまでの怯え」も説明がつく。また新羅から日本へ降り立った新羅王「天日矛」の記述はあっても百済から降り立った3、4世紀の勢力の記載がないというのもヤマト王朝の正統は百済系であるということなのだろう。
新羅王「天日矛」の系譜追求が日本史解明の鍵を握っているのではないだろうか。

投稿者 staff : 2008年11月14日 List  

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コメント

記紀は偽文書です。竹内文書を読んで下さい。

投稿者 er : 2016年4月9日 14:28

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