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2011年01月17日

日本人の起源11~日本ではなぜ権力が共存したのか?

昨年から追求してきた日本人の起源シリーズも、2011年に入り第11弾となりました^^
前回の「侵略部族の流入から見る縄文気質の特質」では、大きくどの時期日本に渡来人が流入する中での日本人の気質を追求しました。
今回は、流入した後の日本古代史をどうみるか?を追求する中で、日本人の気質にさらに迫りたいと思います!
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写真はこのサイトからお借りしました
Byさーね
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まず、日本において王朝が興隆する時代を追求するために、以下のような視点を持つことが大事です。いずれも、私達にとっても馴染み深いものがありますが、これらをどう読むか?ということが重要です。
・大陸からの渡来人は各々渡来してきた状況が違う。
・神社は、古代王朝の座を争った有力氏族の支配のため。
・権力を握った氏族によって、神は神話上、都合良く伝えられる。
日本古代の体制変化(江南人⇒新羅⇒百済)の仮説や’10年末なんで屋劇場での大陸との関係,Y染色体の認識を中心に、るいネットの追求投稿,他サイトを調べながら日本古代史の図解を簡単に作成してみました。
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日本古代の体制変化(江南人⇒新羅⇒百済)を引用しながら、追求していきたいと思います。

イ.日本列島に昔のある時期から、オオクニヌシで代表される先住民(縄文人、国津神、出雲神族)が出雲に王朝を建てていた。(6千年前中国南部から渡来、~2世紀)。

時期は合っていないのですが、中国南部から渡来したのは、徐福(と倭人)あるいは大陸の負組である越人である可能性が高い。彼らは、いずれも命からがら逃亡してきた状況にあり、日本に漂着した時にはとても戦争などできるような状態ではない。日本に溶け込むことで生き延びる方法を選択したのだと思います。

ロ.そこへ、朝鮮半島の新羅・加羅から押し出されたスサノオが渡来し(天津神、弥生人、倭人)、オオクニヌシを征服した(2世紀後半頃、出雲。出雲神。出雲政権)。そして吉備を経て、物部政権を建てた(3世紀初頃、奈良の纒向)。あえて言えば、物部政権は、1代神武から16代仁徳までに相当する。

新羅系のスサノオの一団が渡来。新羅の出自は遊牧騎馬民族(ツングース系)である可能性も高く、オオクニヌシを征服(orオオクニヌシが国譲り)。出雲大社系の神社を広く建立し、支配を固めていったのではないか。彼らも、逃亡組で、日本に溶け込んでいったと考えられます。

ハ.その後そこへ、アマテラスが朝鮮半島の百済から押し出され渡来し(これも天津神、中国東北部の高句麗色が強い)、スサノオを始祖とする物部政権に代わり、いわゆる大和政権(現天皇家につながる。藤原政権ともいえる。)を建てた。(5~6世紀頃、奈良大和)。あえて言えば、現天皇家は17代履中~29代欽明辺りから始まる。

大和時代に入り、百済から押し出されて渡来したアマテラス=藤原政権。どうも逃亡組ではなく、支配のために渡来してきた可能性が高そう。事実、スサノオは神話上粗暴な行為をしたと描写されており、前政権の神を否定、信仰を自らの神=政権に向けようと画策しています。
ところが、不思議な点があります。侵略目的でやってきた百済系=藤原政権は、新羅系=物部政権の出雲神社を根絶せず共存させている点です。大陸での闘争原理から考えれば、戦争を仕掛けて根絶やしにする方法論もあったはずがそれをしなかった。出雲系神社が圧倒的に残っていることを考えると、祭祀を新羅系に担わせ、百済系は政権自体を担うという役割分担がされているともみれます。
ここで、縄文人=日本人の受け入れ体質がポイントになります。縄文人は、既に二度、渡来人を受け入れてきました。稲作を始めとした生産様式や道具を含めた農耕技術,大陸の様々な文化,神社=神道,漢字⇒日本語…それらに純粋に同化し,受け入れたに違いありません。(その上で受け入れ難いものは排除しているようです「受け入れ体質の日本が持つ最大の武器とは!」)
出雲系神社は、縄文人が深く受け入れ、広く深く地域に広がっていた。大陸からの技術や文化を日本人はより昇華させており、このような状況を渡来人は目の当たりにして、逆に彼らも戦争という道ではなく、受け入れる方向へ向かったのではないでしょうか。
かなり仮説になってしまいました^^;日本の古代史はかなり複雑でわかりにくいところでもありますが、このような仮説を繰り返していくことで、私達日本人が既に有している大事な認識がまだまだあるように感じます。次回も、日本人の起源を追求する中で、さらに事実に迫りたいと思います!
るいネット参考投稿
日本古代の体制変化(江南人⇒新羅⇒百済)
■古代日本の社会構造(仮説)
古代日本史は氏族間の勢力争いの歴史
受け入れ体質の日本が持つ最大の武器とは!
新羅の歴史(新羅の高官はいつ日本に入ったか?)
百済の歴史(天皇家は百済の王族そのものでは?)

投稿者 sawatan : 2011年01月17日 List  

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コメント

>インダス遺跡の一つモヘンジョダロは「死者の谷」と呼ばれ、大量の死体が発見されている。皆殺しに近い殺戮があった・・・
という認識でいましたが、画像の引用元を読んでみると、
実際、
>それらの遺体には、すべて虐殺された徴候がみられたことである。なぜならば、ほとんどの遺体には、頭部に打撃を受けた損傷があったのである。
とされているが、見つかった遺体は46体のみ。しかも地表近く=当時の地表ではないことから
モヘンジョダロからドラヴィダ人が姿を消した原因は、アーリア人でもシュメール人でもないのではないでしょうか?

投稿者 nishimu : 2011年5月12日 22:40

シュメール人が元々は”黒人”だったとは、驚きでした。しかも、「目には目を、歯には歯を」のハムラブ法典などのイメージから結構戦いが多かった好戦的な人種というイメージがあったけど、もともとはそうではなかったようですね。

投稿者 火の鳥 : 2011年5月12日 22:46

nishimuさん、 火の鳥さん コメント有難うございます。
nisimuさんの疑問「モヘンジョダロからドラヴィダ人が姿を消した原因は、アーリア人でもシュメール人でもないのではないでしょうか?」について、確かに何千年前の事で何が原因か真実は解りませんが、現象事実の積み上げて、仮説を立て真実に迫る事は、ワクワクしますね。是非nisimuさんの推論も聞かせてください。
火の鳥さん、もっと驚く事に「5000年前に地中海文明を担った人も黒人である。」と言う事が最近明らかになった様です。
我々が学んだ古代歴史は、西欧人に都合よく作られているようですね。

投稿者 匿名 : 2011年5月19日 22:54

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