弥生時代における私権統合社会への道筋 ~北部九州での戦いと武器の変遷より~ |
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2009年02月01日
日本支配層の系譜1 ―朝鮮半島の倭の地から―
古代史では、日本は倭の国であったと言われている。教科書にそう書いてあったし、みんながそう思っていた。
ところが、倭人の元々の故地は、中国の呉・越であったことが分かっているし(日本人の起源:“倭人”のルーツは中国大陸の呉・越)、倭=日本と考えるのは大きな間違いだということも分かってきた。
(「倭」=「日本」であるという定説の嘘)
では、古代戦国時代に中国南部を脱した倭人は次にどこへ行ったのか?倭人の主力は、古代朝鮮半島にいたと考えられる。
その倭人の住む倭国の範囲は、山形明郷氏によると朝鮮半島のかなり広い範囲を占めていた。
山形氏説の倭の所在地 (概ね1~2世紀ごろ)
参照:【要約】『邪馬台国論争終結宣言』山形明郷著~③倭はどこにあったか?
ついでに三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の地は、同じ山形明郷氏によると、
山形氏説の三韓所在地 (概ね2世紀ころ)
通説の地図とは、全く異なり、馬韓・弁韓・辰韓は朝鮮北部の遼東半島の一角を占めていたに過ぎない。この地図で考えたほうがいろんな点で整合してくる。なので今後この地図をベースに考えて見たい。改めて年代を整理してみると。
・BC473 呉滅亡(呉系倭人)
→主力は朝鮮半島へ、
一部は日本各地の沿岸部へ(南九州隼人、瀬戸内・東海・関東へも)
・BC334 越滅亡(越系倭人)
→朝鮮半島へ・日本沿岸(主に北九州と沿岸の島嶼部)
・BC220~200頃
楚滅亡次いで秦滅亡→秦からの逃亡部族(後の加羅族など)が
朝鮮半島へ。
・BC150頃 倭、百余国。(北九州でも戦争頻発→小国家へ)
・BC100頃 馬韓・弁韓・辰韓成立
(呉系倭族を中心に、加羅族などが混入)
・AD1世紀 (日本の瀬戸内で高地性集落が盛んに作られる)
・57 倭の奴国王、後漢に朝貢
・146~189 倭国大乱:倭国(朝鮮~日本)で百余国成立
≒侵略部族となって日本へ
・3世紀中頃 ヤマト王権成立
(倭人+加羅族の連合政権→前方後円墳勢力)
・5世紀 倭の五王、広開土王碑
・562 任那滅亡
呉滅亡に伴い、呉系倭人は沿岸部を通って北上、遼東半島に根拠地をつくりここから朝鮮半島全体に広がった(後の韓人→特に新羅系へ)。一部は日本列島へ流れ着く。この呉系倭人は、黒潮に乗って日本の太平洋側にも広く分布、九州南部の隼人や、関東まで分布していった可能性が高い。(後に新羅系が東日本とつながりが深いのもこの出自と関係があるのかもしれない。)
遅れてきた越系倭人は、先着民の少ない朝鮮半島西側~南部に定着(上図倭人の地)し、そこから近い日本列島の北九州と島嶼部に定着。これが倭国を形成する。ただし南朝鮮の地は、倭人だけではなく、韓人や戦乱の大陸から逃れてきた様々な部族(一旦≒加羅族と呼ぶ)が混在し、部族連合的な小国家群を形成していた。
朝鮮北部で北方部族の高句麗が成立し、さらに韓人の国家(馬韓・弁韓・辰韓)が形成されると倭人の地は、次第に圧迫され南方に追いやられていく(それが伽耶・任那)。この状況の中で北方部族:鮮卑の南下・侵攻により誘発されたのが南部朝鮮における倭国大乱(下記関連記事参照)。・・・・・これらの諸部族は邪馬台国を形成しても抗しきれずに、次第に南方に押しやられ、ついに新大陸である日本列島へと活路を見出していく。
山形氏による百済・新羅・高句麗・倭(伽耶)の勢力図
一方朝鮮半島での高句麗による三韓への圧迫も激しさを増し、韓人(呉系倭人)の部族、特に辰韓からの部族が日本に来襲あるいは押し出されていく。既に日本各地に土着した倭人と連携しつつ各地に国(狗邪国、不邪国、伊都国、投馬国など)を建設していく。
このような状態が続き、ついに3世紀に畿内において、これらの部族の連合王朝であるヤマト王権が成立する。半島由来の倭人と加羅族の混成王朝だった。ヤマト王朝を成立させた後も、彼らは完全に一体となることはなく、縁故ある朝鮮半島の王族と連携しつつ、ヤマトにおける主導権争いを繰り広げるようになる。
※解明必要な点:加羅族の詳細。
(by Hiroshi)
参照記事 古代朝鮮・韓民族の形成とニッポンなど
■関連記事
●倭国大乱と卑弥呼について、(注:これは朝鮮半島における出来事)
るいネット【要約】『邪馬台国論争終結宣言』山形明郷著~④卑弥呼は遼東侯公孫氏の係累 より
倭国大乱とは、鮮卑族集団の大々的な侵攻をきっかけに、倭国が国家統制に支障をきたし、結果として主導権争いの内紛に発展したものと勘案される。
当時遼東に君臨した公孫度が、遡ること12年前、鮮卑族の侵攻によって内乱を誘発され、事後、主権をめぐって争乱に明け暮れていた倭国収拾策として、自らの勢力的背景を托し送り込んだのが「卑弥呼」ではなかったか。
●朝鮮半島の国家の部族構成
古代朝鮮・韓民族の形成とニッポンより
百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家。 古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。
後に新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。
●伽耶(弁辰)と辰韓には中国大陸の内陸部から来たと思われる部族がいた。≒加羅族
るいネット 朝鮮半島南部(馬韓、辰韓、弁韓)の歴史と民族 より
秦の始皇帝に遼東半島へ駆り出され、長城建設に酷使されていた民族が、秦の滅亡後、楽浪郡へ南下し、その一部がさらに馬韓に逃れて、その東方に辰韓を建国、馬韓の辰王に従属していたということになります。
弁辰と辰韓は衣服、住居、言語、法俗が良く似ているとされていて、大きく異なるのは宗教です。似ているが、少し系統の違う民族でした。
・・・・これは、竃神、祝融の子孫と唱える楚人を想起させるのです。
投稿者 ihiro : 2009年02月01日 TweetList
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コメント
投稿者 Hiroshi : 2009年3月7日 02:02
津波被害をうけない高さなので、ある種の避難意識が持続してた集落なのては?
とふと思いました。
投稿者 さぶろた : 2011年6月11日 04:19
弥生中期には、1000年に一度の巨大津波はなかったのでしょうか。高地性集落は、津波避難的なファクターが時の国王にあったと考えても不思議ではありません。
さぶろたさんの着想に賛同します。その角度から是非、
歴史、考古学、地理学の研究を進めて頂きたいものですね。30年以内と云われる南海大地震に備えて、21世紀の「高地性集落」の構築計画を、四国、瀬戸内海沿岸部
でも早急に検討すべきでないでしょうか。
投稿者 たんぽぽ : 2012年2月8日 18:47
高地性集落って興味ありますね。朝鮮式山城とでも言ったほうが近いように思いますが。
大きく3回に分けられ、第一次は前1世紀末頃、第二次は2世紀頃、第3次は3世紀頃。
・・・と考えると、ほぼ朝鮮→北九州→畿内への倭人勢力の動きに対応しているように見えます。