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2009年01月30日

弥生時代における私権統合社会への道筋 ~北部九州での戦いと武器の変遷より~

 
弥生時代は、私権統合社会に向けて動き始めた時代とも言われています。
今回は、私権統合社会への道筋を、当時最も争いが激しかった地域の一つである北部九州を基に、紹介させていただきます。
なお、今回、「弥生時代の戦い」橋口達也氏著を読ませていただき、同著書より、引用、紹介させていただきます。(著者は、主に北部九州を研究フィールドとされていらっしゃる方です。)
 
 
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■武器使用以前の時期
 
弥生時代成立当初の遺跡である佐賀県唐津市菜畑遺跡は福岡県二丈町石崎曲り田遺跡からすでに朝鮮半島由来と思われる有柄式磨製石剣や柳葉式磨製石鏃が出土している。しかしこれらの武器は、居住跡などの生活跡から出土し、破片での発見や研ぎべりされ短くなり、極限に近いところまで使用されたものがほとんどである。このため武器としての使用というよりは、狩猟等に使われ、突き刺された獲物の解体時に取り出され何度も研ぎ直して使用されていたものであろうと考えられている。
 
 
■武器としての使用が開始された時期(戦いの始まり)
 
弥生時代早期末になり、殺傷された人骨が初めて出現する。戦いの犠牲者として最も古いのは、前4世紀後半の福岡県新町遺跡24号墓例の人骨である。木棺墓と考えられる跡より、人骨の左大腿骨の頸部に矢尻(朝鮮半島系の柳葉式磨製石鏃)の先が折れて突き刺さっており、その後の骨の治癒反応もなく即死に近い状態だったと推測される。
またこの時期以降、棺内より有柄式磨製石剣や柳葉式磨製石鏃の完成品が出土するものも現れることより、武器の副葬が始まったことが伺える。
またこの時期より、環濠をめぐらした環濠集落(福岡市那珂遺跡や福岡県粕屋町江辻遺跡)が出現することも、戦いが始まったことを示す例といえる。
 
稲作の開始による生産力の急激な発展は、余剰生産物を生み出し、生活を安定させ人口を増加させる。この人口増が新たな可耕地への進出を引き起こし、弥生文化開始から100年ほど経過した早期末になると、当時の可耕地ははぼすべてに集落が形成されることで、近隣集落間で、土地、水争いが顕在化し、集落防御のための環濠を設け、戦いの結果による犠牲者も出現するに至った。

 
 
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   有柄式磨製石剣(福岡県福岡市 雑餉隈遺跡)
 
 
 
■近隣集団間の戦いが熾烈を極めた時期(首長権の発生と展開)
 
前期後半から中期前半にかけては、近隣集団間の戦いは熾烈を極めた。戦法は、まず弓矢で射かけ、剣でとどめを刺し場合によっては頸をとるという集団戦による戦い方だった。戦闘指導者は、この華々しい活躍から、単なる生産、戦いの指導者から前期末期には首長へと転化していく。この時代の戦いは、丘陵頂部における居住地の確保と湧水であり、水田化に多大な労力を必要としない自然条件のよい谷間の確保、開発をめぐっての集落間の衝突、抗争であった。そのため進出集団のみならず、その母体集団においても最大の関心事であり、母村の指導者は進出集団を統率する役割を担った。
 
新たな可耕地の開発は分村していくという点では、血縁的結合関係を強く残していながらも、水稲耕作を基盤とする各水系ごとの地縁的結合の共同体を新たに作り上げていく過程でもあった。この地縁的結合の共同体こそ農業共同体として把握すべきものであったと筆者は考えている。
 
前期末になると、朝鮮半島系の青銅系武器などを副葬し、南海産の大型巻貝であるゴホウラ製の腕輪を着装し、墳丘を持つ墓へ埋葬されている被葬者が現れており、土地開発及び戦闘を通じてさらに強力となっていた母集団の指導者は、この時点で一般構成員からは突出し富をも集中する農業共同体の首長へと転化していったといえる。
 
前期末から中期前半にかけて首長層はますます権限を強化していく。首長権を獲得した彼らは首長層相互に婚姻関係を結び通婚圏を拡大した。智力、腕力、胆力ともにすぐれた彼らの子孫はますます優秀な人材を輩出し、世襲制も成立し首長権は確立したといえる。このように権力を必死で勝ち取った首長層はその権力の維持、強化のために支配の機構を生み出していき階級差も生じはじめる。
 
先述したように前期末に成立した農村共同体は血縁的結合関係を残しながらも、水稲工作を基盤とした各水系ごとの新たな地縁的結合体であった。中期前半までは激しく戦闘が行われていたことが考古学的に実証されるが、集落間、共同体間の戦いであった。
首長層はこの過程でますます権限を強化していき、中期後半の段階では「末盧」「伊都」「奴」などのように律令期の郡に匹敵する領域を持った地域的なまとまり「クニ」が形成される。

 
 
■領域から地域の覇権争いの時期
 
中期後半の段階では鉄製武器がかなり普及していき、それまで実用品であった青銅製武器は祭祀品へと転化していく。武器のほとんどが鉄器化していく中で、中期後半から後期前半にかけては「クニ」の盟主的首長はさらに権限を強化していく。北部九州ではそれら「クニ」の中で「奴国」と「伊都国」の両者の力関係がその後の社会発展の動向にきわめて大きな影響を与えた。北部九州地域の覇権をめぐって「奴国」と「伊都国」が時には緊張関係が激化し、時には緊張関係が緩み連合していたのが実情であろうと考えられる。
 
注:石製や青銅製の武器は、鉄器に比べ脆いため、争いの痕跡として人体内に刺し込まれ折れた状態の剣先等が、埋葬された人骨と共に発見されることも多く、争いの状態も把握しやすい。ところが鉄器では人体内で破損することはまれであり、痕跡は人骨の切創や割創などのみとなるため、前者の時代に比べ鉄器が使用された時期の戦闘の実態については不明な点が多くなる。
 
 
 
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              魏志倭人伝なぞ解きの旅さんよりお借りしました
 
 
 
■倭国大乱の時期
 
倭国大乱があったと後漢書に記された時代、北部九州でも若干の高地性集落が知られており、倭国大乱の軍事的緊張は一定程度反映しているが、直接戦場となった形跡はない。すなわちこの段階は北部九州では低地における集落が爆発的に増大している時期であり、戦乱のさなか可耕地を開発して農作業に勤しむ事は到底無理と考えられる。このことから、北部九州は戦場ではなく、後方で兵站補給の役割を担ったものと考えている。
 
それでは、戦場はどこであったかということについては、難しい問題としながらも、筆者は鳥取県青谷上寺地遺跡を候補の一つとして挙げている。
遺跡ではこの時期に属する戦闘行為によると思われる、多くの殺傷人骨が検出されており、これらの人骨がほぼ同時に積み重ねられるように埋葬されている。また人骨は多くの殺傷痕を残すのみで、4点の銅鏃を除けば武器の切先などは残っておらず、鉄器にて殺傷されていることを示している。
4点の銅鏃は北部九州系のものであり、戦いの相手は北部九州勢力であった可能性が極めて高いと筆者は考えている。
 
 
 
以上、引用、抜粋
 
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■今後の課題など
著者は、詳細な検証から、倭国大乱の時期には、北部九州には戦場の後はなく、後方支援の地域であったと推論付けています。
このことは、北部九州を治める大きな勢力が存在していたことを示しています。そしてこの勢力の戦いの相手として、著者は一つの候補としながらも、青谷上寺地を挙げています。
弥生時代のこの時期における戦いの状況を押さえる上で、この青谷上寺地遺跡がどの程度の規模のものだったのか、またこの時期に多く作られた高地性集落は、どのようなものだったのか、もう少し詳細に見て行く必要がありそうです。

投稿者 yuyu : 2009年01月30日 List  

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