| メイン |

2007年02月14日

環壕はなぜ忽然と姿を消したのか?

弥生時代の人々の意識を解明する上で、「環壕」が忽然と消え去ってしまった原因をおさえておく必要があると思います。
今回は、「環壕の起源」「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を、
邪馬台国の道から紹介したいと思います。
%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C.jpg
高島 日本最大の環壕集落として知られる吉野ケ里遺跡は紀元前3、4世紀から紀元3世紀までの約700年間、継続的に存在した。その初期の環壕が遺跡南側で確認されているが、形状はどうも韓半島にも類例がある楕(だ)円形のようだ。
 韓半島における環壕集落の成立は吉野ケ里遺跡より古く、その後、日本でいう弥生後期まで続いている。
韓国南岸には多くの環壕集落が確認されており、その中に環壕の形状が楕円形もある。南山(ナムサン)遺跡などがそうで、吉野ケ里遺跡のように大きくはないが、成立年代も同じとみている。形状や成立年代など類似点は多く、日本の環壕集落の起源は韓半島の可能性が高い。
西谷 関係の深さを感じさせる遺物も多い。福岡市の板付遺跡に代表される弥生時代初期の環壕集落から出土する磨製石器と同じ形式のものが検丹里(コムタンリ)環壕集落で確認されている。磨製石器のほかにも韓半島に源流を持つ支石墓が吉野ケ里遺跡の近くにある。環壕だけでなく付随する遺物や遺構までそっくりだ。やはりルーツは韓国と考えたほうが自然だろう。
引き続き、「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を紹介します。
続きを読む前に、ぽちっとお願いします 😀
Blog Ranking にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


高島 それでは日本で環壕集落という集落形態を普及させたのはだれなのか。弥生時代に始まった稲作は、韓半島や中国からの渡来人が日本に伝えたとの説が有力だが、環壕集落も渡来系がつくったのだろうか。それとも在地の縄文人なのか。
西谷 担い手はやはり渡来人だと思う。ただその人たちだけでなく、在地の人々も先進的技術や文化を受け入れ、育てていったと考える。
 私も縄文人と渡来系が融合し「弥生人」となりつくり上げたと考える。例えば縄文時代終わりの代表的な土器「夜臼式土器」に、韓半島から伝わった無文土器が影響を与え、弥生土器に変わっていった。このように在地の人々と移住した渡来人が協力し合い普及させていった。
高島 では環壕は何を目的につくられたのか。
西谷 壕や木柵などあれだけの大規模な土木工事を見れば、やはり防御という面が大きい。ただ初期と吉野ケ里遺跡が繁栄した後期とは防御の対象が違う。当初は周辺のムラだったが、大規模環壕集落となった後者はクニに対するものだった。
高島 初期の環壕は、緊張関係にあった在地の縄文人に対するもので、開拓者だった渡来系がコロニー(移住者の集落)として設けたと考えてもいいのか。
西谷 唐津市の菜畑遺跡など環壕を備えていない遺跡もあることを考えると、コロニーには疑問が残る。菜畑はむしろ渡来人と在地の縄文人が一緒に集落を形成していったというのが自然。当初から環壕を備えていた集落は、地域の象徴的存在とか拠点とみるのが自然だろう。
環壕のある集落は、色濃く半島の影響を受けているようです。
そのような地域の象徴的存在を具現化していたのが「環壕」だとすると、それが忽然と姿を消したということは、集団を統合していた原理に、何か大きな変化があったのではないでしょうか?
観念統合という視点からの分析も必要なようです。。

投稿者 naoto : 2007年02月14日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/02/137.html/trackback

トラックバック(1)

コメント

「大量渡来」といっても、1000年で、100万人→1000人/年。30人乗り木製船だったら、30回程度。
この程度だったら、あり得ると思うし、「少数渡来」と言っても語弊はないのでは?
何か、「大量渡来」とか「少数渡来」とかの論争は、ずれている気がします。

投稿者 naoto : 2007年3月4日 22:04

弥生時代は紀元前1000年頃から?AMS年代測定法の現状と可能性
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/31341772.html

投稿者 匿名 : 2007年3月4日 23:13

少数の渡来人が来て、縄文人と混血するなかから徐々に血を濃くしていった、というのが素直な解釈 > これも釈然としませんね、現時点でDNA構造が似ているったって、時系列的に加算だけで成り立っているのでなく、時として減算(民族浄化とか)も有り得る。あるいは、さらなる上塗りも考慮されるべきだろうし、他方、半島人も元を含む歴代皇帝の占領軍の核遺伝子だけ入れ替わった可能性も考慮されて然るべきではないでしょうか?結果が似ているから原因も同じというのは短絡的すぎ、また半島人の顔は、かなりの確率で私は見分けられます。

投稿者 さきもり君 : 2008年10月21日 17:41

つまり日本人の祖先(主流)=ツングース系8(あるいは7):2(あるいは3)東南アジア系で、そこに数千人単位の渡来人が寄生してきた。その高度な(中国起源の)文明・文化を認めたので、一時的に数千人の規模に達した可能性も有るが、なんらかの事情で排斥されたと観る。日本語の根幹には、発音も文法も影響していないから、たんなる居候(あるいは縄文版クラーク博士)に過ぎなかった。そして、その先進「知識」も、朝鮮でなく中国が起源と分かるや、朝鮮渡来人の地位は下がる。他方、半島では、元などモンゴル系の核遺伝子が大量に入り込んで、結果的にDNA構造が近づいただけと思う。しかし、明らかに容貌が異なっている事実だけでも、この両民族が近縁という学説は受け容れがたい。そもそも半島のDNAが、半万(5000)年間も同じという前提が間違っている。

投稿者 さきもり君 : 2008年11月30日 15:30

環濠とは?
未だ全体の解明はなされていないが、
徐々に明らかになったものを総体すると・・

投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2017年11月2日 01:04

コメントしてください

 
Secured By miniOrange