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2010年03月11日

宮廷サロンをつくった商人とそれを支えた受領

「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズ7回目です。今回は、平安時代、宮廷サロンの背後構造に迫ります。
前期平安京の人口は、貴族・官人約1万2000人、職人が1万5000人、一般市民9万人と算出され、これに実数不明確な奴婢などを加えると、合計12万人前後~13万人だと推定されています。米・塩・布などの生活必需品を商う官営市場以外に、武具や錦を扱う民間の市場が現れ、平安中期には、現在も地元のひとや観光客でにぎわう「錦小路市場」の原型が登場。894年に遣唐使が廃止され、「主体的外交」として国を閉ざした日本は、外圧を憂う必要もなく、京の都は、活気をきわめます。
一方、中国の東北部、朝鮮半島よりさらに北の旧満州国のあたりに建国された渤海国は、当時、隣国の新羅とは緊張関係にあり、それだけに大唐国や日本との外交を積極的に展開することで、文化的な国家を維持しようとしていました。渤海国からの使節の来訪は、727年~919年まで、34回にも及んでいます。
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                                    「源氏物語絵巻」柏木二 徳川美術館蔵
「源氏物語」の冒頭は、それが書かれた一条朝より約百年前(900年前後)に時代設定した作品といわれていますが、その当時の交易事情を意識してか、「唐物(からもの)」とよばれる舶来品が多く登場しています。「唐物」とは、中国に限らず朝鮮(渤海国を含む)からの輸入品全般をさす言葉。具体的には、沈香・麝香をはじめとする香料、白檀・紫檀などの木材、蘇芳・丁子といった染料、銅黄・紺青といった顔料、綾や錦といった衣料、瑠璃壺や呉竹。
物語では、「唐物」をいかに多く所有しているかが、権力や文化的性の問題と密接にかかわってきます。特に第一部では、最も価値ある唐物は、光源氏が財力ではなく、その才能と魅力によって獲得したという描かれ方がなされることが多く、光源氏を箔づけようとしている。唐物の質と量は、光源氏の魅力と権力の「喩」として機能しているのです。
源氏物語から100年下った、1000年前後の摂関期貴族社会においても中国文化、唐物への憧憬、需要はきわめて高かったといえます。
ところが当時はすでに建前は鎖国。そこで形式的に登場するのが「宋人定」です。
※宋人定とは・・・宋商人が九州沿岸に来着すると、大宰府が検査を行なう。その内容を見て中央政府が帰化か、追い返すかを裁定する。帰化、交易が許可されると、まず中央から唐物使が派遣され、民間にさきがけて、商客の持ってきたすべての物品を一時的に差し押さえ、朝廷が必要な物品を確保して京へ進上する。残りが民間取引に委ねられた。
貴族たちは独自のルートで唐物を入手しましたが、形の上では、天皇=国家による買い上げが中心。貿易統制の場として、大宰府とその長官は実質的に大きな機能を果たすことになります。 国は閉ざした、にもかかわらず国をあげて私的交易を支援した。ここに、公然と認められた市場の抜け道がつくられます。
平安の中央貴族が、これらの貴重品・ぜいたく品を望んだのは、外圧のない成熟社会の必然構造ともいえますが、より実体的には、自分の娘を少しでも上の貴族(その最高位は天皇)に嫁がせるためには、十二単で着飾らせ、唐物を持たせ、清少納言や紫式部のような優秀な女官を身の回りに置く必要があった、ということでしょう。つまり、男をひきつけるため、挑発するためには性の幻想価値を演出する必要があった。逆に言えば、そこまでの資力がなければ中枢貴族として君臨できなかった、ということです。
では、その実現基盤=お金の出処はどこでしょうか?
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地方諸国=国府は、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して1年間の農業経営の原資となる米を貸し付け、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と3割ほどの利息を回収するという制度がありました。こうした公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えますが、実体はそうではありません。
これは借り手の意志を無視した強制的な融資であり、百姓たちは、たとえ経営の原資に困っていなくても毎年必ず国府からの融資を受けなければなりませんでした。そして、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。つまり、王朝時代の国府が行っていたのは、融資の体裁を借りた課税でしかなかったのです。国家あげての不当課税の登場です。中央から派遣された国司、受領たちは、それに乗じるように、不当徴税、恐喝および詐欺、公費横領、恐喝および詐欺の黙認。やりたい放題がエスカレートしていきます。
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画像はこちらからお借りしました。
王朝時代において、五位以上の貴族は昇殿が許されましたが、受領は五位止まりの中・下級貴族。当時、昇進は、氏(≒家柄、出自)により制限されていることから、上流貴族(中央の中枢)への道は閉ざされていました。彼らにとって、地方とはいえ、相当の裁量が任された受領国司という地位は、魅力に映ったでしょうし、私腹を肥やすとだけでなく、時の権門に擦り寄るチャンスでもあったのです。
摂関家は、有能な受領を家司に組織して、彼らの財力をもって奉仕させました。特に、豊かな要国の受領には院宮権門自らの家司を任じ、その財力を取り込むことが多くありました。受領の側でも多くの受領を歴任するには権力者の意を迎えることは不可欠でした。なんといっても、受領の人事権は、貴族連合である公卿全体が握っており、最終決定は天皇と摂関家によってなされていたからです。
ここに、上流貴族と受領国司との癒着、取引が成立します。
国家財政は諸国の正税を財源とする方向にすすみ、受領との個別交渉へと、律令国家財政の中央集権的特色は分散化に向かいます。貴族は任官希望者から任料を受領して推薦して任官させたので、一種の売官制度でもありました。
以上をまとめると―。
外圧がゆるむと、国としての課題がなくなり、関心が私権獲得に向かう=民需増大、直接的にはお金と女の価値が暴騰。その幻想価値を高めるために市場が拡大し、国を閉ざしたのにもかかわらず、私的交易を国が支援するという抜け道がつくられる。そして、その最大消費者としての上流階級を金銭面で支えたのは、受領から迂回される不正徴税、貢ぎ、賄賂。
私権時代の普遍構造が取り出せます。清少納言も紫式部も受領階級出身。貴族と受領の取引は財貨だけでなく、人身売買・人身御供にまで及んでいたとみることもでき、その意味では、現代より過激、といえるかもしれません。宮廷サロン・王朝文化は表面的には優雅に映りますが、実は、汚職と腐敗と徹底した搾取に支えられた時代で、政治は地方から乱れ、やがては中央も断末魔を迎えます。
院政期、日本史上最大の「政と性の退廃・乱倫」を経て、新しい政治体制が生まれます。言うまでもなく武士の台頭、幕藩体制の登場。次回は、そこから始めます。
うらら

投稿者 urara : 2010年03月11日 List  

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コメント

>遊牧共同体集団が急激に市場の旨みを手にしたことによる共同体崩壊の危機の潮流であった。
遊牧集団が厳格な規範を持っていたのは単純に市場化だけとは限らないようにも思います。例えばそれ以前にも、遊牧駆け落ち集団による集団解体と略奪闘争時が考えられます。
恐らくアラブ遊牧集団は、砂漠に逃げ延びた時点で、略奪闘争に関する何らかの総括と規範化を行っていた?
イスラムに関しては、なかなかつかみにくいというか、もう少し切り口を探ってみる必要もあるのかなと思いました。

投稿者 Hiroshi : 2010年5月19日 13:00

Hiroshiさん、こんにちは。
略奪に巻き込まれたはずのアラブ遊牧民が、なぜ本源性が強いのか、民族意識があるのか、母系を残しているのか、このあたりが疑問でした。
単に負けて逃げ延びただけなので自らが略奪集団化することは無かったからか、あるいはアラブという狭い地域内では母集団と遊撃部隊とが分離する必要が無かったかたらなのか、、
>恐らくアラブ遊牧集団は、砂漠に逃げ延びた時点で、略奪闘争に関する何らかの総括と規範化を行っていた?
なるほどそう考えると、アラブ遊牧民族の特性について説明できそうですね。

投稿者 nishipa : 2010年5月22日 19:18

調べれば調べるほど、イスラム社会は世界史を見渡しても、あまり例のない過程を積み重ねてきていることがわかります。
商人の街から始まったイスラム社会が、欧米発の市場拡大の波に完全には飲み込まれていないことの不思議。。。
Hiroshiさんがおっしゃるように、略奪闘争に関する何らかの総括と規範化を行っていたのでしょうか?
追求すればするほど、ますます興味をそそりますね。
今後の記事、楽しみにしています

投稿者 Marlboro : 2010年5月22日 19:34

>遊牧集団が厳格な規範を持っていたのは単純に市場化だけとは限らないようにも思います。例えばそれ以前にも、遊牧駆け落ち集団による集団解体と略奪闘争時が考えられます。
恐らくアラブ遊牧集団は、砂漠に逃げ延びた時点で、略奪闘争に関する何らかの総括と規範化を行っていた?Hiroshi さん
上記のアラブ世界とはアラビア半島が中心だと思います。
この地域は3分の1以上が砂漠であり、今でも世界で最も人工密度の低い地域です。
逃げ延びる(=生きる)為に辿り着いた場所は砂漠で生きるには超過酷な場所。単に人工が増えない気もする。
しかし、帰る場がなくそこに生きざる得ない人達に共生する意識=規範が出来てもおかしくない気がしますね。
追い詰められた人々の意識が心底にあって、生きる為にどう共生する!という意識がアラブの根底にありそうでね。

投稿者 skakashunn : 2010年5月22日 19:47

Marlboroさん、skakashunnさん、ありがとうございます。
急激な市場経済に呑み込まれながらも、踏みとどまって、イスラムの規範に誰もが収束していくとは、、、不思議ですね。
元々規範性の強い民族だったと考えられますが、そのあたりのアラブ人の意識にも迫ってみたいですね。

投稿者 nishipa : 2010年5月29日 20:34

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