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2010年02月18日

古代日本外交史 ”主体的”外交への転換

日本列島における生産技術の発達、及び流通経路の発達を考える上で、中国・朝鮮半島との関わりは非常に深いものがある。つまり、中国・朝鮮半島との”外交関係”が、古代日本(弥生時代~古墳時代~奈良時代)の日本列島社会のあり方を決定付けた。
この時代、渡来民の大量移入から生産技術の発達が始まり、やがて遣隋使・遣唐使によって輸入した先端知識により国内統合・秩序化を図る体制へと次第に転換していった。どのような歴史的背景がそれを可能にしたのか?

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■縄文時代→弥生時代→古墳時代

(画像引用元:http://www5a.biglobe.ne.jp/~happy_1/Edobakuhu.html)
紀元前3世紀から紀元後3世紀(2300年前~1700年前)にかけての弥生時代、中国大陸や朝鮮半島から断続的に渡来人が日本に流入してきていた。ほとんどが、中国大陸や朝鮮半島における戦争の敗残民であり、彼らの多くは氏族ごと日本にたどり着いていた。そして、彼らの多くは、中国・朝鮮半島の技術、つまり稲作技術や製鉄技術を携えてくる。
稲作技術の普及、及び鉄器製品の普及によって、農業生産力は右肩上がりに上昇していく。それと共に農業生産の生産基盤(生産財)である土地を巡って、緊張感が高まっていく。弥生人たちは、縄文時代の贈与による緊張緩和を下敷きに、古墳を築造し部族間の象徴を作り出すことで戦争を回避、ゆるやかに統合されていく。(もちろん局地的な戦争はあったが、中国・朝鮮に見られるような大規模な戦争は発生しなかった。)
氏族単位・部族単位で築造された古墳であったが、やがて支配圏(統合圏)が広がっていくと”形”も変質していく。出雲地方の方墳(四隅突出型墳丘墓)と吉備地方の円墳とが融合し出現した前方後円墳などがそれに当る。畿内・吉備地方を中心に、大小の前方後円墳が築造されていった。
ちょうどこの時期(3世紀中盤)にヤマト王権が成立したと考えられている。
☆中国・朝鮮半島からの先端技術を持った渡来人によって、日本列島の生産力が増大
☆農業生産力の発達に伴い、部族間の緊張圧力が高まるが、融和・談合によって緊張を回避
⇒象徴としての古墳の築造
☆やがて、氏族の融合も進む⇒前方後円墳・前方後方墳

■古墳の大型化と大王家による外交チャンネルの一本化

(画像引用元:http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/11/000649.html)
4世紀にはいると統合圏の拡大に伴い前方後円墳の大型化が進んだ。4世紀から5世紀にかけての古墳の大型化、すなわち大王権力の増大と時を同じくして、外交チャンネルの一本化が進んだ。
それまでのヤマト王権下では、各豪族がそれぞれに中国・朝鮮半島との外交ルートを独自に持っていた。この時代の外交の多くは「質外交」であったと言う。すなわち、支配氏族の中枢的人物、あるいは技能者を相手国に送るというものだ。当時の中国・朝鮮半島は戦乱が続いており(:馬韓・弁韓・辰韓から百済・新羅・伽耶が誕生)、彼らは日本列島の各豪族を通じてヤマト王権からの外交上の「見返り」(=軍事的援助)を求めていた。
5世紀にはいると、戦乱が続いたこともあり、中国・朝鮮半島と日本列島各豪族を繋ぐ多チャンネルが混乱し始める。伽耶からの大量の渡来人(「質」)を力の基盤としていた(それ故、伽耶寄りの外交政策を取ろうとする)葛城氏と、百済との親交を深めようとしていた大王家の対立が深まり、大王家によって葛城氏の首長が殺害され没落していく。
そして、各首長層が持っていたネットワークが大王によって集約され、中国・朝鮮半島からの渡来技術を大王が一手に引き受け、分配・供給されるシステムが5世紀後半に段階的に整備されていく。外交ネットワークを大王に結集していったのである。
5世紀後半のヤマト王権は、外交・交流のネットワークで優位な立場を背景にして、「技術革新」の中核的な存在となっていく。そして、それら技術・情報・生産物は技術者派遣も含めて各地に贈与し続けた
☆中国・朝鮮半島での戦争圧力の高まりにより、「見返り」=軍事的援助を求める質外交へ
☆中国・朝鮮半島が戦争によって混乱。各豪族ごとに持っていた外交ルートを、大王家に一本化
⇒並行して、古墳の大型化が進む。
☆大王家=天皇家が、「技術革新」の中核的な存在となる。

■外交政策の変化

(画像引用元:http://fujissss.exblog.jp/10774861/)
しかし、5世紀後半から突如古墳の規模が縮小し始め、ほぼ同時に神社が各地で設立され始める。祖先祭祀の場=集団間統合の場が、古墳から神社へと移行していったのだ。(ヤマトから招かれ日本海地方から大王に就いた継体天皇の時期にあたる。東国地方の豪族のバックアップを受けて即位した継体天皇が、伊勢神宮を設立したとも言われている。) 広範な地域を画一的に統治できる神社ネットワークの広がりにより、国内統合がより安定化していった。
隋帝国が成立した頃(600年~610年)のヤマト王権(推古朝)は既に合議制が機能し、支配者層の意思統一がはかられていた。しかし、合議に参加する群臣の下には、朝鮮諸王権から様々な贈与があり、未だ外部王権と個別の関係も保たれていた。従って、国際関係がますます複雑化し、また国内統合も安定化に向かう中にあって、王権はそこに潜む複雑なネットワークをも強く警戒するようになる。
同時に、東アジアからの最新の知識や技能の移入を、かつてのように朝鮮諸王権の意を受けて渡来する人々にのみ頼る体制を改めていく。
渡来系氏族がその内部で再生産してきた渡来文化・技術は、それが更新される場合、朝鮮半島から新たな渡来者を取り込むことが一般的だった。これが、朝鮮諸王権の意思の介在しやすい構造になっていた。ところが推古朝以降は、渡来系氏族出身者を直接隋・唐に派遣することで、渡来文化・技術の刷新を図ることが一般化していく。こうして、遣隋使(→遣唐使)が体制化されていった。
つまり、中国・朝鮮半島からの一方的な流入を受け入れるのではなく、ヤマト王権が必要な時に必要なモノを取り入れる体制への転換に舵を切った。
その中でも、推古天皇・聖武天皇・桓武天皇などの天皇は、国内統合のための最先端観念(知識)体系を取り入れるために、遣隋使・遣唐使を派遣した。彼らは、新しい観念体系を輸入することで、旧体制の足かせを外し、新しい国内統合を目指した。逆に、国内統合が一定の安定を見ると、輸入する必要がなくなるため、遣唐使を送る意味が無くなってしまう。
以後、日本列島は、開国と鎖国とを”主体的に”選択する外交戦略を取り、明治維新を迎えることになる。

☆推古~天武天皇~桓武天皇と段階を経て、向こうから贈られる一方ではなく、受容を”主体的に”選択する外交へと転換
☆中国・朝鮮半島との交流を深めるかどうかも判断できるように
☆利用価値が無いと判断した時点で、遣唐使を廃止→”鎖国”政策を取る
☆以後、明治維新に至るまで開国と鎖国を繰り返す。
☆これが、現在に至るまで日本の外交に対する見方を決定していく。
(日本にとって「都合の悪いもの」は、取り入れないor取り入れた後で排除する)

(ないとう)
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新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(前半)
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(後半)
古代日本外交史 ”主体的”外交への転換

投稿者 staff : 2010年02月18日 List  

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コメント

未開部族の性の事例は確かに多種多様ですね。驚くものが多いです。性に対して大らかというか規制が少ない。
うらやましい限りですが、逆に文明社会になると性は規制され日常から封印される。これも世界中どの国を見ても同じようです。イスラムなどは特に厳しく、女性そのものを見せないように隠してしまう。
性に対する人々の意識の統合の仕方がどうやら規範を作っていく上での根本になっているようです。
性を肯定視するか否定視するか、そこが分岐点のようですね。
性を肯定視するとはどういう事か?それが「縄文体質を切開する」キーワードになりそうです。
私もしばらく考えてみます。みなさんも考えてみてください。
wwwmmm・・・。

投稿者 tano : 2010年5月4日 13:11

tanoさん、コメントありがとうございます。
>性を肯定視するか否定視するか、そこが分岐点のようですね。
>性を肯定視するとはどういう事か?それが「縄文体質を切開する」キーワードになりそうです。
 聖書を読むと、旧約も新約も徹底的に性を否定視しているのが判ります。
 集団を第一とした東洋では、性を肯定視できたが、自我を活力源とした西洋では、性のコントロールが出来ず、否定視するしか無かったということでしょうか。

投稿者 tama : 2010年5月9日 02:48

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