「自我」の壁を突き破ろう! |
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2008年03月26日
私権社会への変遷(弥生庶民の状況分析)
縄文時代が終焉し、弥生時代を経て日本はいよいよ私権国家へと変遷していくのですが、分岐点である弥生時代がるいネットやこのブログを通じてまだまだ明らかにされていないように思います。
私権社会への変遷のキーワードはそれまでの共同体が解体し、渡来人が持ち込んだ私権社会の様式に染め上げられていく課程です。日本の場合は他国と異なり侵略、武力支配の明確な転換点はありません。渡来人が持ち込んだ水田技術や婚姻制を含めた社会統合手法、私権規範などを刷り込まれることで徐々に(ではあるがわずか500年弱)私権社会へ変化していった可能性があります。
一方で、その後の歴史においても日本人としてのアイデンティティーは各時代を経て残存し続けており、それらが縄文時代に培った本源性であることは明らかです。それが、日本人が世界史的に見ても特殊で稀有な存在として注目されている所以でもあります。
つまり、「日本は弥生時代に私権社会へ一気に移行していない」のではないかという仮説を立ててみたくなるのです。
私権社会への変遷とは一言で言えば自我を正当化した私権観念の支配度合いであり、同時に略奪部族に対抗する為の超集団の統合手段でも在ります。私権社会への移行が遅れた、私権観念の浸透度度合いが比較的少なかった所以は自我を封鎖するしくみを残存させていたからであり、そのまま縄文社会の共同体が庶民レベルではかなり後まで残っていた可能性があるのです。私達は歴史の便宜上、縄文―弥生と時代を切り分けあたかも弥生時代でスッパリと庶民の意識まで国家統合へ向かったかのように思いがちですが、庶民レベルではきっと縄文社会の連続性の中に農耕を受け入れていったのではないか、そういう可能性も決して捨てがたいものだと思うのです。
これから数回に渡ってこのテーマを追求していきたいと思います。
「縄文時代から弥生時代に渡って果たして自我は封鎖されていたのか」
このテーマを解明する為に弥生時代の基礎資料が必要になります。
今回はその1回目として弥生時代の庶民の社会構造を見ていきたいと思います。
ポチッとクリックして社会構造を覗いて見ましょう!
テキストとして私が愛読している斉藤忠さんの日本考古学概論から弥生の状況をまとめてみます。
1)集落の形態
立地)
弥生時代の集落の特徴は稲作を中心としたムラの発展である。
ムラは低地が主流ではあったが、防衛性が高まった地域では高地に作られる事もあった。弥生時代研究家の間では高地性集落として研究テーマになっている。
しかしながら規模も数も低地性集落が圧倒的に多く、弥生時代の集落は稲作地に隣接して設けられたと一旦固定しておく。
また、集落の回りには環濠が設けられ、主に動物の侵入を防いだ。但し後期には環濠を深く、幅広くする事で動物だけでなく人の侵入を防衛したとも言われている。
構成)
集落は住居と倉庫、水田により構成される。
平均的な集落の規模は以外にもそれほど大きくなく、弥生時代後期の集落である静岡県登呂遺跡では12棟の住居で構成されていた。仮に1住居5人として70人の規模の集落になる。この規模でも弥生時代としては大きい方で、高地性集落では一地点の村落は2,3棟から10棟ぐらいで単位集団の人口は10数人から30人前後と推定されている(小野氏)
最大規模では静岡県沼津市の八兵衛屋敷遺跡においておよそ3000平米の地域で72棟の住居が発見され、350人規模の集落である事がうかがえる。ただ、集落の規模は後期に減じている地域もあり、弥生後期のほうが明らかに大型化したと結論付ける事は危険であると著者は指摘している。
集落内には他に倉庫、貯蔵坑、井戸、炊事場、祭祀場などもあった。また登呂遺跡の場合集落から南と西に100m離れたところにスギ、イヌガシ、シラカシ、クスノキ、エノキなどの森林があり、南西からの強風をさえぎる目的ではあったと著者は分析している。
墓地は集落内部に設けられることはなく、居住地とは地区を異にして近接して設けられた。
住居の形態)
円形又は四角い方形住居で縦穴式のものが多い。中には炉が設けられ、床面積は平均して20~30㎡のものが多い。大型のものは100㎡~150㎡のものもあった。
水田形態)
水田跡としては登呂遺跡の場合、最小区画で80㎡ほどあり、他には160~200㎡のものがあった。水田を区画する畦道は1m~1.5mで作られており、矢板などで区画されている。灌漑施設や排水施設は全てそろっている。
また、弥生時代にはすでに青森県にも垂柳遺跡から用水路畦畔をもつ水田跡が発見されており、東北地方に技術が渡っている事が確認されている。
社会の構成は基礎単位の変遷という内容で、以前るいネットで投稿された内容を紹介しておきます。
弥生時代の社会統合はそれまでの共同体を破壊する中で実現された。
前期) 村落は単一の家族集団からなり、基礎単位は村落全体となる。
前期末~中期)村落は複数の地域集団からなり、基礎単位は自律性をもった家族集団となる。
後期前半) 村落は複数の家族集団からなるが、その細分化がすすむ。しかし、他律化形骸化されているものの家族集団が依然として基礎単位となる。
後期後半) 村落は個々の住居の群集からなり、家族集団は姿を消す。したがって基礎単位は個々の住居単位の住人となる
基礎単位の変遷は生活(労働)の編成が成員の側の主体的共同体的な資質から権力による政治統括的な抑圧へと変遷していった。
以上の内容から、弥生時代の集落は農耕集落としての特徴は伺えるが、村落の規模が爆発的に大きくなっているわけではなく、縄文時代の集落規模である30人~50人という規模を踏襲している事が伺える。その事は住居形態が縄文時代の縦穴式を継承している事からも確認でき、縄文時代晩期の社会のまま稲作社会へ変遷していったものと言えるかもしれない。基礎単位についての解説はあるが、共同体的な資質から政治統括的な抑圧へと明確に変遷していったのは弥生後期後半になってからと言える。(但し根拠が示されていないのでその程度の軽重はわからない)
投稿者 tano : 2008年03月26日 TweetList
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コメント
投稿者 saah : 2008年5月1日 22:45
「政治的に統一」とは書いたのは、それが戦いによって統一されたばかりでなくむしろ多面的な関係から統一されたと考えられるからです。
鏃が刺さった40台男性の遺体が葬られていたり、敵部族と思われる頭蓋骨が列をなして陳列されている遺跡があるにはあるのですが、大規模な戦闘があったという証拠はありません。
その後の貢納関係を考えると武力は補助的なものであった可能性が高いと思います。
さらに建設後200年間でモンテ・アルバンとオアハカ盆地の人口が急増しています。これは他部族が保護を求めて集まってきている事から、部族連合の一種だった可能性もあります。
投稿者 匿名 : 2008年5月1日 23:03
たとえばモンテ・アルバンの「政治的に統一」の必要はなぜ生じたのでしょう?
周辺部族(都市)間(?)において抗争が生じていたのを収める為でしょうか。仮にそうだとしたらその抗争生じたのはなんで?
また、この各部族(都市)間の抗争の止揚力となったのは武力?
さらに部族(都市)間の抗争を収める為に武力で統合したのだとしたら、その後の領土拡大は何のためだったのでしょうか?
その辺も次々に疑問が沸くところですね。