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2007年01月13日

たたら製鉄は日本ならではの製鉄技術?

みつこさんの記事の「鉄器の流通」のコメントの中からたたら製鉄の話が出てきました。
日本の製鉄の始まりであり、日本にしかないこの製法について詳しく書かれたブログがありましたので紹介したいと思います。
ブログのタイトルは
「もののけ姫」を読み解く
です。⇒このブログは読み物としてもかなり面白いですので時間があればぜひ一読下さい。
その中の たたら製鉄の記事です。もののけ姫の映画を見た人はたたら鉄を踏むシーンを思い浮かべながら読んでください。


日本の製鉄は太古より行われていた。日本には、原材料となる鉄鉱石は乏しかったが、火山国の特性として上質の砂鉄が大量に採掘出来た。このため、砂鉄を炊いて鉄塊を精製する特殊な製鉄技術が発達した。この日本独特の製鉄技術を「タタラ製鉄」と呼ぶ。
 タタラとは、神話時代から使われていた古い言葉であり、今も地名に残っている。タタラには、年代順に「蹈鞴」「鑪」「高殿」などの漢字が当てられた。「蹈鞴」は、「鞴」を「蹈む」という意味。「鑪」は製鉄に使う溶鉱炉の意味。「高殿」は製鉄用の特殊な建物(後述)を示す。漢字の推移は、そのままタタラの発展を示すものでもある。
 タタラ製鉄は、諸外国で行われた鉄鉱石の製鉄に比して、はるかに硬度と柔軟性に富む上質の鉄を作り出す技術であった。不純物が混在している鉄鉱石に比して、砂鉄は原料段階で不純物を除去出来る。砂鉄自身の純度が高ければ、極上の鉄塊を作ることが出来るのだ。タタラ製鉄で出来た鉄塊は、現在の製鉄技術を駆使しても及ばないと言われるほど高純度なのである。世界最高峰の鉄刀と言われ、各国に輸出されていた日本刀も、タタラ製鉄なればこそ出来たのである

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「ふみふいご」(右)と、改良された「てんびんふいご」(左)。これらを合理的な装置に改良したのが「たたら炉」である。(鉄の語る日本の歴史上/飯田賢一/そしえて文庫)
ではそのたたら製鉄とはどうやって作ったのでしょうか?
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たたら製鉄の工程



タタラ製鉄の作業工程は以下のような手順である。
 まず膨大な量の樹を切り、山から運び出して炭焼が木炭を作る。同時に川や山から大量の砂鉄を採集する。砂鉄採集は、当初は「竪穴掘り」と呼ばれた露天掘り、後に「鉄穴流し」と呼ばれた水路設置による分離法(比重選択法)に発展する。大量に採集しなければならないため、大変な重労働であった。これは、「鉄穴師」と呼ばれた者たちによって担われた。
始めに炉床を深く掘り、石と炭を多層的に詰めて窯状の床を築く。この地下で、土を乾燥させるべく二ヶ月を要して徹底的に炭を焼く。この際、わずかな湿気があっもよい鋼は出来ないと言う。
 次に、粘土によって作られた窯であるタタラ炉を設置する。ここに木炭をくべて火を焚き、砂鉄を放り込みながら炉に空気を送り込み、一五〇〇度以上の高温を保つ。これを指揮者の「村下」一人(表村下・裏村下として二人制の場合もあった)、「炭坂(炭焚き)」二~三人程度の交代制で行う。
 送風は、数十人を動員して手動のふいごで行っていたが。中世になると六人程度で稼働する「踏みふいご」が出来る。近世には更に改良され、二人ですむような「天秤ふいご」が出来た。作中に登場するのは、「踏みふいご」である。交代制でふいごを踏み続ける重労働を担う者を「番子」(「代わり番子」の語源か)と呼び、力自慢の荒くれ者が多かったらしい。
 このように、一工程の操業には最低十人は必要であった。三日四晩不眠不休で炉を燃やし続け、ふいごを踏み続けると、砂鉄はようやく溶けて鉄の塊となる。これを「ケラ(金へんに母と書く)」と言う。タタラ炉を取り壊してケラを取り出す。この一行程を「一夜」と呼ぶ。
極上の真砂砂鉄で作られた鋼鉄は「玉鋼」「和鋼」などと呼ばれ、刀剣類や武器・農具に加工された。これらの鉄塊を取り出す前述の製鉄法を「ケラ押し法」と言い、これが最も高度な技術を要する製鉄法である。
 その残りは「錬鉄」と呼ばれ、「左下法」と呼ばれる製鉄法で取り出され、鍛冶が包丁などに鋳造した。
 これとは別に、赤目砂鉄で作られた鋼を「銑鉄」「鋳鉄」と呼び、「銑押し法」と呼ばれる製鉄法で取り出され、鋳物師の手によって鍋釜に加工された。 
 以上の三様式が、典型的なタタラ製鉄の行程である。
 このようにタタラ製鉄には、伐採・運搬・炭焼・砂鉄採集・炭焚き・タタラ踏み・鍛冶・鋳物師などの諸職が不可欠で、当然大人数による産業共同体を構成していた。彼らは、平地の稲作農民からは「タタラ者」「山内者」などと呼ばれていた。

ここまでの生産工程は江戸時代までに完成されていました。
たたら製鉄の立地条件とは・・・かなり特殊な地域に限定されていたようです。


タタラ製鉄の集落を構えるための立地条件は、何より水と樹木に囲まれた地であることである。
 まず、膨大な砂鉄を採掘出来、木炭の原材を提供する森林の際であることが必須条件である。また、鉄塊の水冷作業が出来、船輸送に便利な水際でなければならない。
 また、急激な森林伐採により山崩れや鉄砲水などの人為的災害を引き起こす製鉄民は、平地の稲作農民からは嫌われていた。この為、人里離れた山中で作業を行う方が都合が良かった。中世以前は、地と水のせめぎ合う地や、人気のない山奥は「人と神々の境界線」として崇拝する傾向が強かったため、「神ががりの職能民」としての位置も保てたのである

たたら生産にはこうして多くの水や樹木が必要だったのです。


記録によれば、一回のタタラ製鉄で砂鉄十九トンと木炭十五トンが消費され、出来る鋼はわずかに五トン程度であったと言う。炉の新設時には、炉床の基礎工事と地盤乾燥に一五〇トンもの薪を焚く。一回の製鉄作業に一山丸ごと消費するとも言われた。まさに「山が鉄を作る」のである。
 製鉄の歴史は古く、稲作発生以前とする説もある。人類は、製鉄技術を開発したことで、森を切る速度を格段に速くすることとなった。鉄製の農機具と調理器具を開発して安定した食料を得た。鉄製の武器を開発して大量殺戮と部族抗争の果てに大国家を作り上げた。しかし、その結果として、自らの首を絞めるほど環境を破壊してしまった。
 中国や西アジア、ヨーロッパなどで進行する砂漠化・禿山化は、もとは製鉄(初期は製銅)で樹を切り過ぎたためとも言われている。太古の彼の地では、樹を植える習慣もなく、森林も復活しなかったのである。文明は森を伐って栄え、伐り尽くして滅んだのである

たたら民と農民の戦い


平地の稲作農民にとって、鉄穴の泥と排水を下流に流し、山を崩して自然災害を引き起こすタタラ者は、天敵であった。出雲には、スサノオノミコトが火炎を吐く大蛇を退治する伝説がある。これを被害に苦しんだ農民が大和朝廷に訴え、製鉄民が平定された話―とする解釈は多い。
 最近の考古学では、弥生時代以降、日本の森が急激に減ったことが明かにされている。日本の稲作は、弥生時代以降に全土に広がったわけだが、当初の開墾時期にはすでに鉄製農具が使われている。稲作と同じ時期に、製鉄も発生したのである。鉄器で森を切り、焼畑と鉄製農具によって開墾された稲作地帯が急増したのだ。
 いくら照葉樹林地帯でも、人の手による開拓が余りに急激であれば、樹が生える余裕はない。邪馬台国の謎の移動も、製鉄で失われた森を求めてのものだったとする説もある

急流と水が豊かな日本の河川は砂鉄を多く産み出し、たたら製鉄という独自の製鉄技術を生み出した。
そしてそれはその後の世界に冠たる日本の工業史の始まりでもあり、自然破壊の始まりでもあったのです。(by tano)

投稿者 tano : 2007年01月13日 List  

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