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2013年04月24日

「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~3:古代豪族はネットワークで結ばれていた1

みなさん、こんにちは。
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」の3回目。
今回は古代豪族のネットワークについて、2回に分けて考えてみたいと思います。
大陸より伝わった「稲作」という生産様式は、人々の土地への定着を促します。
稲作には、開墾や灌漑の為の土木技術や集団作業を行う為の統合力が必要となります。
そこで、この様な技術力、統合力を背景に地域を束ねる土着の豪族達が日本各地に現れますが、こうした豪族達がネットワークで結ばれていた、という事実はあまり知られていません。
古代豪族ネットワーク、これは世界的にも珍しい事例といえます。
どうしてネットワークが必要だったのでしょうか。
またどんなネットワークだったのでしょうか。
その後の日本史にどのような影響を与えたのでしょうか。

興味が尽きません!早速見てゆきたいと思います!!
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画像はこちらよりお借りしました。

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徐福集団による、「秦」の動向を警戒する為の「情報ネットワーク」
そもそも何ゆえ「ネットワーク」が必要だったのでしょう。
それを考える時の鍵となるのは、前回このシリーズであつかった「徐福伝説」です。
古代ネットワークの中心となったのは、この「徐福」率いる大陸からの大量の渡来人集団でした。
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徐福 画像はこちらからお借りしました。
以下、当ブログ記事「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~2.徐福と縄文の出会い
より引用します。

中国の歴史書:史紀によれば、紀元前219年、秦始皇帝の命を受け不老不死の仙薬を求めて、徐福は3000人、30隻の船で蓬莱山、すなわち日本列島を目指しています。
徐福は大陸の東端、斉の国の方士であり、秦始皇帝から仙薬を見つけるための莫大なバックアップを受け、日本列島に上陸しますが、そのまま大陸には戻らず日本列島に住み着きます。
(中略)
一ヶ所に上陸せず各地に分散して渡来していることから見て、秦始皇帝を騙して日本列島に逃亡する意思を持って渡来したものと考えられます。力による征服を実行するのであれば、勢力を分散せず上陸してから一気に武力を発揮できるようにするはずだからです。
(中略)
秦帝国からの脱出、日本列島への移住を目的として周到な準備を行ない、秦始皇帝を騙して2回目の渡来を実行しました。
 日本列島各地には今も「徐福伝説」が数多く残されていますが、どれも渡来人徐福集団と争ったというものではなく、様々な先端技術をもたらしてくれたありがたい存在として伝承されています。


引用終わり。
秦の始皇帝をそそのかして、その出資を元に日本に3000人と言う大人数でやってきた、徐福率いる移民集団。
組織的に渡来し、日本各地に住み着いた彼らは、土着の縄文人を力で支配する事なく、むしろ彼らの共認域に溶け込みながら、大陸から先進的な生産技術と統合様式を持ち込む事で支配・統治を行い、古代豪族の礎となりました。
縄文時代から弥生時代への、日本史の一つの転換点を担った事は間違いありません。
しかし、一方で彼らは、始皇帝を騙し本国から追われる逃亡者でした。
当然、追手の情報を掴むためにも、また本国の情勢を掴むためにも、分散移住した集団どうしで情報交換の仕組みを作る事は急務であり、この切実な想いがネットワーク構築の原動力となったと思われます。
本国からの「逃亡」という豪族間共通の外圧に即応する方法が「情報ネットワークの構築」だった訳です。
しかし、さすがの徐福集団も、何も無いところから短期間にネットワークを構築するのは不可能です。ここで、既存インフラともいえる 「縄文ネットワーク」 がその威力を発揮します。
豪族ネットワークのベースとなった「縄文ネットワーク」
日本には、縄文時代に既に地域同士を結んだ「ネットワーク」が存在していました。
縄文ネットワークとな何なのか。
当ブログの記事「縄文ネットワーク」より紹介します。

盛んな交易【※贈与】  
 代表的な交易品は、石器製作の材料となった黒曜石です。原産地はいくつかに限られており、遺跡から出土した石器類がどこの黒曜石で作られたのかは組成分析で正確に特定できます。交通機関もない時代、原産地からは驚くほど遠くの集落にまで黒曜石は行き渡っており、しかも遠いほど複数の産地からのものが混在しています。つまり複数の交易ネットワークがその集落をカバーしていたことが伺えます。新潟県に産地が限定されるヒスイも、北海道までの交易ルートに乗っており、その他多くのものが交易されたようです。大きくて壊れやすい土器さえ、100キロ以上に及ぶ物流ネットワークに乗っているのです。


以上引用終わり
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縄文ネットワーク 画像はこちらから引用しました。
徐福集団が渡来した時、既に日本には「贈与」をベースとした海洋ネットワークが発達していました。
徐福集団はこのネットワークに乗っかる形で、短期間で情報ネットワークを構築し得た物と考えられます。
さて、このように出来上がった原初の古代豪族ネットワークですが、激変する周辺状況と新たな外圧に直面する中で、ネットワークも新しい展開を迎えます。
高句麗の勃興と「防衛ネットワーク」→「大和政権」へ
古代豪族ネットワークが形成される一方で、大陸、そして朝鮮半島の情勢も大きく変化します。
ここで注目すべきは、新興国家「高句麗(高麗)」の勃興です。
Koreaの語源ともなった高句麗(高麗)。
文字通り朝鮮半島を代表する古代国家ですが、いったいどんな国家だったのでしょう。
以下、 「るいネット」さんより『高句麗の歴史(高句麗は日本にどのように入り込んできたか?)』 から引用します。

【高句麗は夫余族と高句麗族との連合政権】  
高句麗は、中国東北地方南部の山岳地帯におきた騎馬民族である。この地域に最初に勢力を拡げた民族は、夫余であった。その後紀元前1世紀末に力を持った民族が高句麗であった。
(中略)
最初の都は渾河沿岸の桓仁であった。伝説では高句麗王は夫余族の末裔で紀元前37年に国を興したことになっている。高句麗はいくつかの部族の連合政権であった。
(中略)
【高句麗の半島南方進出】
鮮卑が前燕をおこし、高句麗と境を接するようになると(319)その圧迫で高句麗は勢力を、南に向けるようになり、南方で勢力を持ち始めた。中国の郡県である楽浪郡を駆逐すると(313)、百済と境を接するようになって対立するようになる。
4世紀末、広開土王(391 -412)の時に南方に本格的に勢力範囲を拡げ、百済、新羅、伽那、倭などと衝突し、さらにその子、長寿王(413 -492)の時には百済の王を殺害し、漢城(ソウル)を征服しすることで百済を一旦滅ぼした。この途中、高句麗に仏教が伝来する(317)。
(中略)
高句麗は南方への進出を進め、朝鮮半島南部で勢力を拡張しつつあった新羅に軍を駐留させるまでになった。


以上、引用終わり。
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5世紀ごろの高句麗。画像はこちらからお借りしました。
新興国家「高句麗」
江南系や半島系の農耕民族と違い、騎馬民族である高句麗はその高い機動力と戦闘力で朝鮮半島を席巻します。
対馬海峡を挟んだ日本にとっても、この勢いは脅威だったに違いありません。
この外圧に直面して、豪族ネットワークも、情報ネットワークからもう一段すすみ、国家統合にむけた統合ネットワークへと発展します。大和政権です。
以下「日本を守るのにみぎも左もない」さんより
「天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ2 日本に脱出してきた徐福が作ったネットワークが大和朝廷~」
から引用します。

■大和政権の樹立
312年高句麗が楽浪郡を占拠した頃から高句麗に対する警戒を強め、大和政権の樹立を決意。そこで、拠点をネットワークの中心である大和に移し、320年前後、緩やかな大和連合を形成した。
続いて、350年前後、同じく高句麗の南下に対抗して百済、新羅が相次いで建国されたのを見て、大和の建国を決意。
葛城傍流の伽耶の王を大王(崇神)として招き入れて大和朝廷を建国した。
つまり、徐福が日本全国に亘るネットワークを構築していたからこそ、その中心地である大和に政権を建てることができた。
朝鮮半島の伽耶や百済から来た勢力だけでは、大和政権(ネットワーク)を建てることは不可能だっただろう。


以上引用終わり。
生産様式が狩猟採取から農耕牧畜に移行する中で、強者が周辺の豪族や小国家を束ねて古代集権国家が成立する、というのは世界史の一般的な流れですが、大和政権はその趣を異にします。
強力な中央集権というより緩やかな連合政権といった色合いが強い。
現代の政党政治にすらその面影を感じます。
一般的には、日本は狭い国土の中で豪族同士の勢力は拮抗し、王権も含めて強大な勢力が誕生し得なかったから、と説明されますが、
古代日本のルーツを紐解くと、むしろ「ネットワーク」を主体とした統治が日本における国家統合の源流であったことが分かります。
外圧に対し、権力を強化するのではなく、ネットワーク、すなわち共認形成を深化させることで集団を統合してきた日本人。
古代豪族ネットワークとは、原初の共認ネットワークであり、その延長線上に大和政権も存在する。
大和政権が連合政権である事は、日本古代史の必然といえます。

そもそも、「連合政権」という言葉自体が近代観念の産物で、集団自我と利権調整の響きがあります。
しかし大和政権とはそのようなものではなく、共認形成を根幹に据えた、もっと強い一体感と統合力のあるものだったのではないでしょうか。
その基礎となったのが古代豪族のネットワークであり、ここに、私権ではなく共認形成を統合軸とする日本独自の統治形態の根幹を見出すことが出来るのだと思います。

さて、今回は縄文から大和政権まで、ネットワークの構築を俯瞰しましたが、次回は具体例を交えながらもう少し細かく見ていきます。
たとえば「古墳ネットワーク」
前方古円墳、前方後方墳の様な独特な形の古墳が、規模の大小こそあれ全国に分布しています。
また、上記の二つの形式も、地域によって分布の偏りがるようです。
なんらかの意図的な関連性=ネットワークの所産と考えられます。
たとえば「神社ネットワーク」
全国津々浦々に分布する「神社」。これは古代の部族毎の自然信仰とどの様に結びつき広がっていったのでしょうか。
また一見同じように見える鳥居の形や祭られている神々も、いくつかの系統があるようです。
これも、なんらかの意図的な関連性=ネットワークの所産と考えられます。
これらに焦点を当てながら、今なお残る「古代豪族ネットワーク」の痕跡とそこに秘められた想いを考えてゆきたいと思います。
ご期待ください。

投稿者 yama33 : 2013年04月24日 List  

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