伽耶を知れば古代日本が見える(3)~伽耶とはインド商人が介入した東アジア最古の武器商人国家~ |
メイン
2013年04月20日
東にあった「もう一つの日本」~2.弥生時代の関東は縄文だった
前回の記事『縄文晩期の関東は空白地だった?』でも書きましたが、関東では、縄文後期から弥生初期にかけての寒冷化の影響で、大きな人口低下が起こったと言われています。縄文時代の関東は、漁撈と採取生産が豊富で、東日本の中でも人口の多い地域でした。しかし、東北と異なり、漁労への依存度が高く、寒冷化による海退の影響を大きく受けることになります。
縄文中期の海面 縄文晩期の海面
そして同時に起こった富士山の爆発、さらに植生の変化によって、これまで通りの採取ができなくなり、人口が大きく低下したと考えられます。このことは、さまざまな書籍で紹介されています。みなさんの中で、下の表を目にしたことがある人も多いと思います。
縄文時代の人口密度
しかし、これをもって関東地方は縄文後期から弥生初期にかけて空白地帯になったと言えるのでしょうか。シリーズ2回目では、この点についてもう少し深く追究してみたいと思います。
続きは応援クリック後にどうぞ・・・ 😀
■人口低下が起こったのは海岸沿いのみで、内陸平野部には元々縄文人はいなかった
縄文前期から中期にかけて、関東地方の縄文人は、下図からも分かるように、海岸沿いに多くい住んでいたと考えられます。
縄文前期の関東平野の遺跡分布
この時期の関東地方は、冒頭でも書いたように、内陸深くまで海水が浸入しており且つ、内湾型の地形となっているため、魚介類が豊富に捕れたことが予想できます。縄文人の主な食糧資源が堅果類と魚介類であったことを考えれば、この地域に人が集まるのは当然の結果であり、魚介類が豊富に利用できたからこそ、これだけの人口密度を保つことが出来たと言えます。
注:堅果類に頼った生活では、どうしてもある程度の採取エリア(=集団ごとの縄張り)が必要であり、これだけ密集しての生活は不可能
そして、寒冷化による海退が起こり、縄文人が住める海岸エリアが極端に減少した結果が、縄文後期以降の関東地方の人口低下であると考えられます。
このように考えると、関東地方の人口低下は海岸沿いに限定され、それ以外の山間部の境界や山沿いに住んでいた縄文人は寒冷化に適応しながら住み続け、堅果類が採取しにくい内陸平野部には元々縄文人は殆どいなかったと考えられます。
■弥生後期まで関東平野に渡来人が進出して来なかったのはなんで?
弥生時代の遺跡分布から、関東地方の人口密度は、弥生時代中期まで低いままであったと考えられています。しかし、普通に考えれば、大陸からの渡来人が関東平野に目を付け、そこに稲作地帯を形成し、弥生人による大集落が出来そうなものです。しかし、関東平野は稲作が最後まで入らなかった地域であり、古墳時代に入り灌漑農耕の技術が確立し、ようやく稲作が可能になっています。
それは何故でしょうか。
理由は、火山灰によって形成された『黒ボク土』にあると考えます。(黒ボク土の形成過程については、前回の記事を参照して下さい)
黒ボク土は有機物の含有量は非常に多いのですが、リン酸と強く結合するため、リン酸分が不足しやすく、施肥を行わない限りやせた土壌となってしまいます。したがって、焼畑をすれば畑作は可能ですが、稲作には不向きな土です。
渡来人にとって絶好の稲作地帯となるはずだった関東平野は、黒ボク土であるが故に稲作には不向きとなり、渡来人が寄り付かなかったのです。
渡来人による弥生化が急速に進んだ西日本に対し、関東地方は、縄文晩期に形成された黒ボク土によって渡来人居住から外れ、弥生時代に入っても縄文的集団が残り続けることになったのです。つまり、弥生時代の関東地方は、続・縄文時代であると言うことが出来ると思います。
■弥生時代に人口が増えたのはなんで?
では縄文人が関東平野に残り続けたとして、古墳時代直前には群馬県毛野には大集落ができあがり、その後近畿にも伍する古墳を造営していきます。弥生人がほとんど入り込んでいないとしたらこの過半が縄文人であったと見る事もできます。どのようにして集落が拡大し、なぜ関東ではそれが可能だったのか?そこを最後に考えてみます。
以下の地図を見てください。上毛野は群馬県の山の麓にある平野部に位置しています。山と平野部の境界域は周辺の山々から養分を含んだ水が流れ込み、農業に適した地帯となります。上毛野地域は農業の難しい関東台地にあって数少ない恵まれた土地でした。また後方に山岳を備え、農作物が取れない場合、狩猟採取して凌ぐ事もできました。
関東の山麓分布
元々群馬県は縄文遺跡も多いのですが、弥生時代、古墳時代に急激に遺跡数が増えています。これは先に述べた、海岸線の低下により、平野部に居住できなくなった縄文人が一旦麓に移動したと考えられます。
さらに人口が増えた理由として、縄文晩期から弥生時代にかけての寒冷期に関東の縄文人は栽培技術を必要に迫られ特化させたのではないでしょうか?元々関東地方は東日本でも海流の影響からか、ここだけが照葉樹林帯となっており、その為、関東の縄文人は漁撈とどんぐりの採取に加え、クリ等の栽培技術を備えていました。
照葉樹林帯の場合、採取品目が限定されている為、栄養確保の為、西日本でも同様に栽培技術が進んでいます。この縄文時代から有していた栽培技術が弥生時代の関東の食を支えたのでしょう。他の地域が稲作で人口を増やしていくのと同様に、関東では畑作と採取で人口を増やして集落が拡大していったのだと推測しています。
では、その拡大した関東の弥生集落はどのようにして大和に伍する国になっていったのでしょう。次回にはいよいよその本質に迫っていきます。
次回へつづく。。。
投稿者 hi-ro : 2013年04月20日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/04/1493.html/trackback
コメント
投稿者 周 : 2014年3月27日 13:58
なるほど
投稿者 匿名 : 2015年8月29日 23:51
関東平野の弥生時代は続縄文時代というのは素人の私には理解しやすかったです^^