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2008年04月11日

ヒスイの広域に渡る存在は、交易か贈与か?

😀 くまなです。
縄文時代の広域にわたる物の移動が贈与なのか、交易なのかについて、「ヒスイ」に注目して深めていきたいと思っています。
20061126116453883429316300.jpg
写真は北海道美々4号遺跡の曲玉。EnjoyKoreaより。
過去、このブログでの記事には以下があります。
縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの
縄文時代において、黒曜石やヒスイが広範囲に出土する状況について、一般的には「交易」の結果だといわれています。一方、このブログでは集団間の緊張緩和のための「贈与」の結果であるとの提起がされてきました。
「交易」と「贈与」には大きい違いがあります。
縄文人が他集団、すなわち、集団を超えた‘社会’に接したとき、どのように捉え、どう対処しようとしたのか。交易は自集団の利益のために他集団と取引(≒騙し)をしようとしたのであり、贈与は争いを避けるために友好関係を結ぼうとしたということになります。
縄文時代の物の広域移動が「贈与」である根拠は以下の2点です。
A)交易であれば一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずであり、広域の広がりを説明できない。
B)自給度が高い歴史を積み重ねてきた原始共同体にとって、他の部族に自らの生活条件及び生存条件の一部を依存するという発想は極めて出てきにくい。

参照:黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②
上記を念頭に置きつつも、縄文時代における物の広域移動が「贈与」であるということが出土状況等のデータから検証できないか、というのが現在の課題意識です。
この間、いろいろ調べる中で、なかなかスッキリとした答えが見えてきません。
どのような状況がハッキリすれば贈与と断定できるのか…(あるいは交易と断定できるのか…)
現時点での疑問点=解明しようとしている課題を次に示します。
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①上記根拠のA)については、交易の起源から検証できるか。対象地はメソポタミア周辺になると思われます。
②縄文時代のヒスイの移動は広域にわたりつつ、出土数に地域的な偏りが見られる。関東地方に多く、東北地方に少なく、東北北部と北海道が多くなっている。そのような結果をもたらす贈与とはどのようなものであったのか。東北北部・北海道との特別の関係があったのか?
②´上記②と重なるが、ヒスイの加工技術は糸魚川で継承され、加工は専ら糸魚川の人々が担ったと考えられる。糸魚川の人が例えば北海道まで持っていったのか?遠方まで贈与する必要性は何か?あるいは、北海道の人が糸魚川までやって来て、贈与を受けたのか。何かと交換したのか(お礼を渡したのか)。そこまでして手に入れる必要性はなんだったのか?
現在のところ、交易ではないと思える状況証拠としては、“交易品が少量すぎる=取引が少ない”という点です。これについては黒曜石に関してsimasanが縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもので提起されていますが、ヒスイについても同様のことが言えそうです。
全国から出土するヒスイの生産地は糸魚川産にほぼ限定されます。現在の出土数から生産量は年間で考えると極少ないと想定されます(詳細検証要)。出土量が圧倒的に多い黒曜石でさえ、生産地での年間生産量が数個です。交易を交換物資の入手を目的としたものなら、取引の頻度が少なすぎます。つまり、交易だとしたら取引の意味が極めて希薄と思われるということです。逆に贈与なら友好のしるしなので、数十年に一度でも問題ない。また、ヒスイという特殊用途と思われる品物なので、需要の発生頻度も多くないと考えられる。つまり、贈る側としても贈与は滅多に行わなくてもよいという判断になる。
その他、贈与か交易かの論証に直接関わるかはわかりませんが、ヒスイに関しての疑問点は以下。
③北海道にもヒスイの産地があるが、そこではヒスイを加工していない。明らかに糸魚川産のヒスイが北海道産に比べて美しかったらしい。美しさへのこだわりは、何のためだったのか?やっぱりあくまで贈り物であって、必需品じゃないから自らつくろうとは思わなかった?
④北海道の人たちが地元のヒスイを贈与品にしようと思わなかったのはなんで?技術力?糸魚川産に比べ品質が劣るから?贈与の必要性がなかった?
⑤ヒスイは、生産地では副葬されていない。つまり、自分たちでは使わなかった。それはなんで?
■縄文中期にヒスイが増え、広がったのは?
上記②~④の疑問にも関連するのですが、ヒスイがその時期に必要とされた(あるいは重宝がられた)のではないかとの考えに基づき、その理由について押えておこうと思います。(贈与により一方的に広がり、受け手側はそれを思い思いに利用した、という考えもまだ残っていますが。各地で装飾や副葬品として盛んに使われたのは事実です。)
ヒスイは人口が増大した縄文中期に本格的に出現します。縄文中期に贈与の必要性が高まった状況については過去の記事黒曜石が贈与品になったのはなぜか?にあります。
>自然外圧の低下⇒集団の拡大⇒集団の近接・接触⇒同類圧力の高まり⇒緊張緩和の必要性から贈与・交換システムの確立
それを参考に「ヒスイ」がその時期になぜ広まったのかに注目して仮説の図解をつくってみました。ヒスイは、装飾品として以外にも多様な使い方をされており、それらが網羅できるような図解としています。
hisui.bmp

投稿者 kumana : 2008年04月11日 List  

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コメント

私は里曳きを一度体験しましたが、みんなで力を合わせ数日掛かりで御神木を運ぶんですよ。
>集団のリーダーが統率しながら、皆が役割を担い、息を合わせて巨木を運ぶ。人は一人一人の力は微力だ。しかし、集団の皆が力を合わせれば、成し遂げられる。この充足感=集団の充足感はとてつもない成功体験となって、集団を統合していくだろう。
まさに↑こんな感じでしたよ!

投稿者 mrran : 2008年5月15日 22:30

 確かに大勢の集まる祭りは、情報収集の場としては最適ですね~。
 祭りが拡大した背景にはそういった側面もあったのかもしれないですね!

投稿者 ダイ : 2008年5月15日 23:02

祭りって見るもの、楽しむものという解脱というイメージがありましたが、本来は生産なんですね。
>情報は他の地域でどんなことが起こっているか、今社会がどう動いているかを知り、それに対する戦略を考えることだ。

投稿者 tano : 2008年5月16日 17:35

コメントありがとうございます!
>mrranさん
やはり、充足感あるんですね~
>ダイさん
なるほど。祭りが拡大していくという捉え方もありですね♪各地域間の交流も、祭りがその役割を担っていたかもしれません。
>tanoさん
またまた、なるほど。生産という捉え方も面白い!祭りをどうも神秘的に捉えてしました。生々しく、生産=課題であると捉え直すと、もっと解明されていくかもしれないですねー

投稿者 さーね : 2008年5月17日 20:42

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