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2009年11月13日

縄文から流れる日本人の本源性の中身とは?-6 祭りの多面性と核心

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😀 くまなです
縄文人の本源性は“まつり”によって培われていたのではないか?
「祭り」の多面性と核心の中に垣間見られる“祭りの本質”からそのように感じました。
現代においても祭りには、自然や祖霊に対する感謝、年齢・性別を問わない分かち合い、みんなで合わせて踊り・唄うなど、みんなでつくる充足があります。それは古来より、人類が本来もっている共同性が培われる場であったであろうことは、容易に想像がつきます。
祭りが人類の本源性を培い、縄文人はそれを継承し続けた。
今回は、祭りに見る本源性から“縄文人の祭り”について迫ってみます。
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1・祭りの意義は、世界の始まりの時間を神といっしょに過ごすことにある。祭りの中での、人の時間ではないとき、ケ(日常)の正気や秩序を失うとき、人は神の世界にいる。本来の祭りのクライマックスは、酔いつぶれることである。カオスであり、神に近づくことなのである。一晩中、踊り明かす神憑かりの時間である。 ハレとは、日常(人の秩序)を超えた時間、神の時間である。そして、祭りとは神話の再演であり、世界の死と再生なのである。

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2・本来動物の本能とでもいうか、心と体に鼓動を呼び起こし共に共振して、個々の集まったエネルギーをぶつけ合うことにより、理屈ではわからない自然の力によって、みんなで良い方向に生きようとする儀式である。

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3・祭りは「神を供応する」心から出たもので、神とともに自分たちも楽しむものなのである。それは神をもてなし、神が楽しみ、その恵みを受けながら人々も楽しむのである。

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4・祭りとは「祀る」ものである。祀る対象があって、そのために祭りをするのである。対象をあがめ、讃え、鎮魂し、そして一体感を得るために、血わき肉おどらせるのである。

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5・祭りは惰性的嫌悪感にみちた生活という日常の対極にある、つかの間の非日常世界である。現実という見える世界をとびこえて、見えざる非日常世界へと遊泳できるのだ。そこには夢や希望や、ロマンや、ノスタルジアや、エロスや、デーモンや、ありとあらゆるものが混在している。祭への参加者は、その摩訶不思議な非日常空間に身をゆだね、自己忘却し、自己解放をはかろうとするのである。

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6・「まつる」とは、神に捧げ物をたてまつり、まつらう(おそばに待ち侍る)ことである。そうするためには「みそぎ」「こもり」によって心身を十分に清めることが必要であった。村の祭りは村中で行なうものである。祭る神は共同体の神である。各人の願いを祈るのが祭りではない。村の共同の願いを、定められた機会にだけ、神に再確認するのが祭りである。願いを神に押し付けたりは決してしない。また、神は祭りのときにしか居ないし、来ない。祭りを執り行う者、つまり祭祀権をもつ者こそ、太古の首長であった。ただの神主ではない。そしてこのリーダーのもと行なうのが祭りなのであった。 長い斎みこもりのあと、来臨した神を祭祀者が中心になって共同体メンバーみんなで迎え、たてまつりまつらい、共同の願いを再確認するのがお祭りだということになる。

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7・そもそも「祭り」は古代の「政」(まつりごと)に端を発する。「政」は神々を「奉る」厳粛な儀式でもあった。人々は営みの全てを神に委ね、祭りを通して災いを振り払い、吉事がもたらされるよう祈願し、同時に神々とともに酒を酌み交わすことで邪念を取り払い、明日への糧としたのである。

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8・もともと祭りとは、人間のライフサイクルにおける刷新の役割を果たすものである。どの民族にも、その形態はさまざまに違っても、年ごとにめぐってくる祭日を祝い、過去の自分を捨てて新しい生命力を回復する契機とする、という習慣がある。それは、人間の本性に共通に備わっている欲求からくるのだろう。

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9・祭りは基本的に神を奉るものとされているが、柳田国男民俗学によれば、神とは基本的に有難きもの、つまり滅多にないもの・・・として存在し、神とは基本的に荒ぶる神としてとらえられていたようだ。祭りとは、荒ぶる神を静める行事であった。

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10・“祭り”とは、人々が日常を離れ、その一瞬に日頃の憂さや体内に溜まった悪いガスを吐き出し、次の日から、また新たに日常を生き直す為のモノである。

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11・祭りにおいて、自分の子供を神に捧げる事もあったが、それは酷い事ではなく当然の「モラル」であり、祭りの中の狂気は最高の恍惚感を与えていたのである。 時にカニバリズム(人肉食)すら容認する”祭り”とは、正しく我々の精神を抑圧から解放し、最高のカーニバル(謝肉祭)に誘うものかもしれない。

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12・祭というものは本来3つの機能がある。一つは、喧噪。誇大なる喧噪、要するに大騒ぎ。それから一つは過大なる消費、ものすごくお金やものを使う。もう一つは性的な放埒さ・性的開放である。


祭りの核心は何か?
そのヒントは、祭りの起源にあります。

圧倒的な自然外圧を前にして不全感を解消すべく、足を踏み鳴らし掛け声を発する「踊り」という様式を作り出す(踊りはバランス感覚を養い二足歩行を可能にし、掛け声は音声機能の発達を促し言葉の発生につながります)。踊りは半睡状態を生み出し、終に自分たちを遥かに超えた畏れ敬う自然の背後に、応望すべき相手=期待に応えてくれる相手=精霊を見る。このように踊り(=祭り)は、不全を解消する解脱共認であると同時に、生存圧力を克服する可能性共認としての精霊=観念共認を形成するものだったと思われます。

祭りは共生適応ではなく集団統合(解脱+闘争)共認の場より
祭りの様式や極限時代の起源から導き出される祭りの核心は、
圧倒的な自然外圧⇒解脱⇒踊りによる共認充足
→半睡・トランス状態

始原人類は、自然外圧に対峙しつつ、不全を解消し集団を統合する(闘争に向かわせる等)のために、充足を追求し、踊り→トランス状態の充足を様式として確立していったのでしょう。その基盤となるのは仲間との充足です。まつりを通じて共同性が育まれます。そして充足が高じて達するトランス状態の中で、例えば宇宙との一体感?のような感覚から、精霊の存在を感じ取ったのではないでしょうか。始原人類が観念機能を獲得できたのは、精霊へ同化し、その期待に応えようとしたからに違いありません。
縄文人はどうだったのか?
洞窟に隠れ住むしかなかった始原人類に比べれば、弓矢等の武器を得て外圧は低下しますが、平均寿命の短さや寒冷化に伴う人口の急減(集団の断絶)に見られえるように、縄文人が生きていくことは現代に比べればはるかに過酷です。自然に対する畏怖の念は変わりません。
不全をなんとかするためには精霊への応望⇒探索⇒同化が不可欠であり、精霊と交信する“まつりを続けたのです。

投稿者 kumana : 2009年11月13日 List  

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コメント

>現在の不全社会の原因を「なんで なんで」と追究していくと必然的に「人類と社会の原基構造の解明」に行き着く。
エジソンの幼少時代はまさに「なんで なんで」の
塊であったそうです。普通人に、1+1=2とは限らないと教師に詰め寄る発想はないと思えます。
エジソンの指摘通り、なるほど1+1=1にもなるし、1+1=0に
なることもあります。
>本ブログ「縄文と古代文明を探求しよう:いったい、人類はどこで道を誤ったのか・・」の存在理由も
当ブログ担当者の中に、エジソンのような発想をもった
個性がいれば、大きなムーブメントを起こすことすら
可能かもしれません。期待しています。

投稿者 スバール : 2010年1月16日 23:14

>本源回路発の潜在思念と事実追求によって<追求してゆく。
日常のどんな場面にも当てはまることですね。重要なのは、まず”ありのままの事実のみ”を共認すること。
そこには自分の”考え”は要らない。
追求とは、そういった事実の共認ができてから始まるのですね。

投稿者 鯉太郎 : 2010年1月17日 18:11

>●まして、社会「科学」に至っては、(観察や統計という自然科学の手法を真似ただけで)本質は欺瞞観念そのものである。
これ本当にそう思います。
現代では、アンケートや世論調査などの統計的手法を使って社会現象を論じたり、答えを提示したりしますが、答えが先にあって、それを正当化するために、マスコミや政治と結託しているように思います。

投稿者 hiroshi : 2010年1月21日 21:02

こんばんわ。少し思ったことを・・・。
~人は未知に遭遇した時「なんで なんで」と追求して、新たな事実認識を獲得して進化してきた。
そして人類の歴史は、事実の塗り重ねによって作られてきた。
現在の不全社会の原因を「なんで なんで」と追究していくと必然的に「人類と社会の原基構造の解明」に行き着く。
最もなんで?と考えないのがテレビを見ている瞬間だと思う。
テレビとは人々から「なんで?」と考える意識を剥奪した人類史上最悪の道具なのかもしれない。
それとも「なんで?」と考えられると困る人たちが考えた思想兵器なのではないだろうか?

投稿者 未来人 : 2010年1月21日 22:05

未来人さん
>テレビとは人々から「なんで?」と考える意識を剥奪した人類史上最悪の道具なのかもしれない。
人類史最悪の道具それは、宗教だと考えます。
信者衆に、「なんで?」とゆう概念を根こそぎしてしまう
恐ろしい最強の道具であり、原子爆弾よりも恐ろしい代物と考えます。
多くの思想家、哲学者はいいます。宗教が地球上から
自然消滅する瞬間、人は自立できるのだと。

投稿者 スバール : 2010年1月26日 23:24

未来さん・スバールさん
テレビと宗教どちらも「なんで」という疑問を持たせない特徴がありますね。
テレビは、映像と言う膨大な情報を一方的に人に与え考える暇を与えず、洗脳する。
一方、宗教は、「信じれば、救われる」と言う風に殆ど情報を与えず洗脳する。
どちらも、思い込ませる事(洗脳する)に専念して「事実の追求」を放棄させるような気がします。
これは、支配者の考えそうな手法のようにも思われます。

投稿者 ryou : 2010年1月30日 22:32

ryouさん
>一方、宗教は、「信じれば、救われる」と言う風に殆ど情報を与えず洗脳する。
より正確には、「信じる者<のみ>、神の奴隷にしてもらえる」ですね。
インターネットも一歩間違えれば、宗教やTVよりも
強力な洗脳ツールとなる可能性を秘めていますが、
今のところ権力側の暴露話等々、一般民衆には良い
方向に向っているとは思います。
ですが、危惧しています。10年後20年後のネットで
どれほどの冤罪者があふれ、苦しんでいるかを想像
できるからです。子ども達が、リーマン問題の
本質はユダヤ陰謀と平気に口にする時代です。
もう、洗脳は始っているのかも・・・・・・・

投稿者 スバール : 2010年2月6日 23:07

スパールさん
ご指摘有難うございます。宗教の本質をより鮮明に理解できる言葉ですね。
ところで
>インターネットも一歩間違えれば、宗教やTVよりも
>強力な洗脳ツールとなる可能性を秘めていますが・・
・・・・
>子ども達が、リーマン問題の
>本質はユダヤ陰謀と平気に口にする時代です。
についてですが、確かに危惧する点はありますが、インターネットには、千差万別の考え方・意見が登場してきます。
その時、人は、どれが事実・本当なのか考え始めると思うのです。
そして、論理整合(現実をより正確に表した)された考えや意見が生き残ると思います。やっぱり役に立たない考えや意見は、必然的に淘汰され、役に立つ考え(ブロッグ)が生き残るとおもいます。
生物の進化と同じですね。さもないと人類は滅亡しますから。

投稿者 ryou : 2010年2月9日 00:19

スパールさん
インターネットはより手軽になればなるほど、一方では悪質な、洗脳の道具としようと思えるような書き込みも増える可能性はありますね。
しかし、同時に「誰でも発信できる」ということは、それまでの一方通行のツールと違い、おかしいと感じた人(必ず多数はいると思います)が、反論の発信をすることが出来ます。
要はryouさんもおっしゃっていますが、そういったいろんな情報の中から、どれが事実なのか、なにが納得のいく情報なのか、こういったものは人々は潜在的に感じ取ってゆくものと思います。
そして、最も論理整合された意見に人々の反応が収束してゆき、下衆ネタは淘汰されてゆくものと思います。

投稿者 鯉太郎 : 2010年2月9日 22:04

ryouさん
>その時、人は、どれが事実・本当なのか考え始めると思うのです。
脳研究によれば、ネット中の脳の状態は、TV閲覧中より
も脳の過疎化状態であると耳にしました。思考停止の神と
もいえるかもしれません。自分では情報の是非を判断している
つもりでも、その実態は脳のシナプス運動をどんどん
劣化しているのかもしれない、とても危険な一面があると
考えています。しばらくネットから距離を置く療法経験者
によれば、喜怒哀楽が正常になったようだとも。つまり
ネット中は、どこかの感情が際立ってしまうか、機能停止
してしまうのではないでしょうか。
ネットでの、民意が世を変えてゆく可能性と、逆に
民意が大量の情報に麻痺してロボット化(情報奴隷)と
なるか、10年後20年後を大きな視野で観察して
いこうと思います。
>鯉太郎さん
>そして、最も論理整合された意見に人々の反応が収束してゆき、下衆ネタは淘汰されてゆくものと思います。
感情が支配して、あまり論理的なものは受け入れられないと
考えます。戦争をいくら否定しても、いつかは日本でも
戦争に突入するのではないかと思いますが、それくらい
感情とは恐ろしいものだと考えます。

投稿者 スパール : 2010年2月11日 22:15

スバールさん
返信が送れて済みませんでした。
>脳研究によれば、ネット中の脳の状態は、TV閲覧中より
も脳の過疎化状態であると耳にしました。
興味がある研究ですね。よろしかったらその内容を詳しく教えてもらえませんでしょうか?
きっと一定の条件下で「脳の過疎化状態」が発生するのでしょう。反対に「脳の活性化状態」の条件もあるのではと思います

>ネットでの、民意が世を変えてゆく可能性と、逆に
民意が大量の情報に麻痺してロボット化(情報奴隷)と
なるか、10年後20年後を大きな視野で観察して
いこうと思います。
納得できますが、希望が持てる気がします。
支配者の力の根源(人々が求める物)は、昔:武力から財力 そして現在:情報力である。その事は間違いないと思います。
よって万人に情報が公開されつつある現在、人の価値?は、情報を如何に読み解くかに掛かっており、財産のように世襲できないので、本来の人類社会が登場してくる可能性が大いにあると思います。

投稿者 ryou : 2010年2月20日 22:46

ryouさん
>きっと一定の条件下で「脳の過疎化状態」が発生するのでしょう。
コピー&ペースト脳といいますか、そこに自主性は
存在せず、カンニング脳と言い換えていいかもしれません。
これがとっても危険で、ネット世代の若者達の将来を
危惧しております。文明の進化(生活の利便性)とは、大衆の脳の退化の犠牲の上に立っている・・・・・なにか空恐ろしくなります。
>よって万人に情報が公開されつつある現在
本当にそうでしょうか。例えばトヨタ問題、明らかに
自業自得であり、利益こそ正義のような体質に
変質してしまったしっぺがえしを食らっている現在、
米国の陰謀やら圧力だとする見解もありますし、日本TV
などは、どうもそうゆう操作をしている節があります。
子ども達の若い脳に、おかしな情報が入りこんで大人と
なる未来に、ネットは一役かってしまっています。
本来の人類社会どころか、見たこともないおかしな
未来を予想しています・・・・
私は、根が暗いのですかね(笑)
返事はよろしいです、ありがとうございました。

投稿者 スパール : 2010年2月24日 22:00

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