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2009年11月11日

日本の官僚制の歴史(2)~科挙を戒めた江戸の学者達

こんばんは。tanoです。
今回は日本の官僚制の第2回をお送りします。
るいネットで山澤さんがまとめていただいている「中央集権=官僚国家を拒んだ日本」では古代中国から日本への官僚制導入期~日本の江戸時代まで大きく捉えています。
まずはこの投稿をこのシリーズのこれまでの復習として目を通してみてください。

中国では水田文明と遊牧文明が激しい摩擦をおこしながら、氏族社会を解体し、封建社会を生み出した。そして地方武士たちの反乱を押さえ込むために、世界でも稀な中央集権文民統治国家=科挙に支えられた官僚国家を宋代には完成させた。
他方、日本はそうした中国の圧力に抗すべく急ごしらえで「中央集権国家=日本及びその象徴としての天皇」を生み出す必要があった。しかし、縄文文明の歴史が長く、水田文明を導入した弥生時代においても、大きな戦乱の少なかった倭国は土着的な氏族共同体を保持したまま、その上に渡来系の支配階層が乗っかる形で統合されていった。従って、上は父系、下は母系という断層を孕みながらも、いずれもが血縁的集団を維持したため、支配体制も極めて世襲的色彩が強いものとなった。

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このように、中央集権化された「日本も天皇」も対外的な側(がわ)だけで、内政は、それぞれの土着の農民たちとそれを束ねる豪族たちの力が強かった。そして、新規に開拓されていった農地=荘園の権益を守るための武装化が進み、中央から派遣された国司や没落貴族などを取り込んで、中央の貴族権力に対抗する武家集団を形成していった。
いいかえれば、日本は土着的・世襲的な封建制度を温存させ、中央集権化と官僚制度を拒んだといえる。そして、この後進性故に、縄文以来の共同体原理も保持され、専制君主を許さない合議制は保持された。(武家における君主押し込め、農村における一揆)
幕藩体制それ自体は確かに官僚機構をなしているが、(イ)原則世襲で合議制である(ロ)藩は独立採算制で、幕府からの収奪はなく、中央集権的ではない、という点から言って、中国のような「中央集権文民統治国家=科挙に支えられた官僚国家」とはいえず、貴族が武家に替わっただけで、封建制度をそのまま残存させているといってもいい

江戸の官僚を見ていく上で重要なのは社会の安定期に突入したという点です。
江戸時代を通じいわゆる官僚制度は全く発達せず、世襲的な武士の役職の制度が続きました。
一方、戦や内乱が長く起こらなかった江戸社会は長期的な平和を実現し、上からだけでなく下層階級からも変革の流れが起きます。百姓一揆や下級武士の登用というのもその流れではありますが、この時代、庶民総体として学問に向かっていったという点は注目すべき点だと思います。
るいネットよりこれらについて書かれた「儒学を学びながら科挙をよしとしなかった江戸の学者たち」の投稿を紹介します。

江戸時代の日本は、封建制だったからといって、勉強熱がなかったわけではない。むしろ、高かった。試験熱は高くなくとも、学校は多く、この点は中国とは大きな違いである。地方を含めて、寺子屋あるいは手習い塾や藩校がたくさんできた。調べていくと、試験制度もある。「足高の制」といわれるもので、これを通じ下級武士からも有能な人材を発掘する仕組みを持っていた。
しかしながら、試験の目的を「昇進」に矮小化することへの疑念は当時の儒学者自身にも強くあり、試験は専ら、勉学に励むことを推奨するための手段であり、選抜するには「人物重視」とする視点もあわせもっていた。「権力闘争で出世を目指す人物より、しっかり武士の心得を学んだものを採用する」という人物重視の視点こそが江戸の学問を健全なものとしていたといえる。

江戸時代の特徴は上記のように万人に学問の機会や意欲が拡大した時代であり、庶民の文字の習得によってそれまでの拡大していたお上と庶民との距離が縮まり、共認社会へと再び拠り戻した時期であったと思われます。
いくつかの切り口でこれら学問の大衆化現象が起きた江戸の社会背景を見ていきたいと思います。

1)幕藩体制とは・・・・

幕藩体制とは山澤さんが上記で書かれているように封建制の残存でしたが、江戸時代の特徴は幕府からの収奪がなく、完全に藩毎に政治的にも自立した体制が取られていたと言う事です。言い換えれば藩毎に互いに競争圧力が働き、商業や生産の発展に寄与しました。
封建社会とは序列身分が固定され閉塞した社会という印象がありますが、江戸の社会は幕藩体制により藩同士の競争を促進し参勤交代による広く市場社会を拡大していき封建社会による閉塞を打破していきました。

2)兵農分離体制と商業の発達による文字の普及

江戸時代の勉強熱はどこから来るのか?兵農分離体制と商業の発達という2つの政策にあったようです。
江戸時代の社会は兵農分離体制が前提でした。兵農分離体制とは都市に集住する少数の武士たちが村の農民を支配する体制です。中世の社会では都市化が進んでいなかった為、武士も農村に住んで直接統治することが可能でしたが、江戸に入り支配する側とされる側が離れて住む兵農分離体制の元では上からの意思は文字によって示される必要があり、行政が文書主義になります。
農民は大量の公文書を読めなければ自分たちの生活に必要な事を入手する事すらできません。また、上から下への文書だけでなく下から上への申告、陳情、訴訟の類も全て規定の形式の文書にしなければ受け付けてもらえず、要するに江戸の幕藩政治は読み書き能力を持つ事を前提にシステムが作られていたのです。
一方、都市や城下町などでは貨幣による消費経済が進み、それらに商品を持ちむ農民は貨幣経済とは無縁ではなくなります。その点からも農民は文字や計算能力なしではすまなくなり、都市、村を問わず江戸時代は日常生活に必要な手段として読み書きそろばんといった学問が定着していくのです。

3)学問の大衆化とそれを支える私塾

江戸時代はこうして幕藩体制による文字社会はシステム化されるのですが、それらに答えるように学びの場は地方から始まり、寺子屋に代表される手習塾といった私塾が多数作られていきます。民衆たちの多くは概ね7歳前後から10歳過ぎまで手習塾で学び筆道稽古や算術を身に付けていきました。


手習い塾で「学ぶ」子供たち
女の子が集った手習い塾の様子を浮世絵の様式で描いたもの/机の位置や向きがバラバラで女師匠が複数人いる点に注目したい。このような光景は江戸時代の手習い塾には珍しくなかったようだ。~それにしても勉強を楽しんでしている様子が伝わってきますね。

4)学問は振興しても科挙に慎重だった江戸の学者たち
~外国から多くの物や認識を取り入れた日本社会の基本的スタンス

江戸時代はこうして下からの勉強熱が上まで行き渡り、官僚の世界でも学識を重視する風潮が高まっていきます。試験制度もいくつか施行されました。しかし当時の学者達は試験制度を上級官僚の登用とする科挙制度への傾斜は慎重になりました。
当時中国史を学んでおり科挙の弊害を見抜いていた儒学者達の反応は以下の通りです。

【競争至上主義の弊害への懸念】
栗山は中国での先例からみて試験による学事奨励効果は大いに期待できる、としつつも、「しょせん対症の御処置」だと述べ、根本的な施策では無いことを示唆している。げんに、競争的な試験にすることの弊害は、すでに第一回の学問吟味の時点で、学問所関係者をとらえている。第一回学問吟味は、林大学頭らと幕府目付たちとの採点基準が違うことから、褒賞者名も発表できず、事実上「流れ」ている。

【立身出世の為の学問への反発】
出世を願って学問に励むということ自体に反発がある。もともと孔子の教えの中に「立身出世」の文字はなく、「学べば稼ぎはその中にあり」「富貴はあとから付いてくる」という考えである。享保の改革時に各種の学事振興策を検討した室鳩巣も、「然れども、自分に立身を願い申し書く、是れ以って士の風儀を失い申す事に御座候」「我と年労を自ら陳べ候て官位を乞い候事、第一士の廉節を傷ない申す事に御座候」と述べて立身を願う心根と廉節の気持ちが両立しないとしている。

5)科挙に代わる評価システムの構築
江戸時代は学問を奨励しながらも評価システムにおいては人物重視を貫いています。

>8代将軍徳川吉宗のもとでいわゆる「享保の改革」のブレーンとなった儒者・荻生徂徠なども科挙の試験よりも、「有徳」の人に着目して行う上司による平常の人物・行動の観察のほうが、より合目的的な選考ができると述べている。そのような観察による人物評価のもつ選抜における効果は、柴野栗山も支持した。栗山が、上司(組くみがしら頭など)は「常に其の組子の人柄をも呑み込み<後略>」などと、部下の観察をよく行うべきことを訴えていた。このほかにも、試験の競争性や射幸性を批判する声は大きく、たとえ盛んになっていたのだとしても、学問吟味方式が識者の学理的な支持を得ていたとは思えないのである。

江戸時代は諸外国に対して鎖国したと言われていますが、中国を初め西欧にいたるまで多くの物、学問、文化を積極的に取り入れた時代でもありました。しかし古来の日本がそうであるようにそのまま取り入れるのではなく、日本風に改編、解釈、時に拒否し、自在に取り入れる内容を選択していました。
その中で中国であきらかに失敗していた科挙は明確に拒否しており、現在の学者にない先見性を江戸の学者達は備えていたことが伺えます。
また学問に向かった大衆の意識も決して個人の登用ではなく藩やお家の利益を守り、繁栄させる為に向かったものでした。上からも下からも科挙が施行させる足場はなかったものと思われます。
しかし、これほど優秀であった日本人は明治になって豹変します。
彼らの何が変化したのか?その要因は何か、そのまま現在の官僚制の弊害に繋がる分析になると思われます。2週間後に掲載します日本の官僚制の歴史(3)の記事に期待してください。
参考)NHK出版 教育を「江戸」から考える~辻本雅史
   PDF:江戸時代の評価における統制論と開発論の相克~武士階級の試験制度を中心に
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『官僚制の歴史~官僚制と試験制の弊害とその突破口を探る』シリーズ
新テーマ「官僚制の歴史~官僚制と試験制の弊害とその突破口を探る」
官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史1
官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史2
春秋戦国時代、何故、中国では邑(共同体)が解体されていったのか?
中国史にみる官僚の誕生~武力統合の必要から官僚の肥大化へ
日本の官僚制の歴史(1)~科挙が根付かなかった日本
軍と官僚制の罠 ~古代国家の官僚制~

投稿者 tano : 2009年11月11日 List  

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コメント

農業の発祥時期はわかるのですが、農業技術の発展過程で集約農業が起きた時に争いは勃発したのだと思います。
メソポタミアしかり、日本の北九州しかり、
そこには水の利権やより栽培に適した土地を争って戦いが発生します。
つまりこんな図式になるのではないでしょうか?
狩猟・採取生産

人口増

農業、牧畜の発祥

人口増

集約農業の開発・農業技術の進歩

(土地と水が死活問題)

争いの勃発
西洋では争いが玉突きになって負けた方は皆殺し、勝者はそのまま国家まで発展した。
一方、争いを止揚する為に日本では巨大な古墳が作られた。
そう考えることもできると思います。
集団統合のあり方も
西洋では国王を中心とした中央集権型に
日本では土地毎のクニの首長が集まり持ちまわる連合型に
いずれにしても階級が作られ、庶民はその下に組み込まれていきます。
>闘争回避=友好関係から、闘争顕在化へと一転する鍵を握っているのは、集団統合共認の有り様の変化、または集団統合共認の破壊を契機にしていると想定されます。集団共認を破壊するのは、サル以来形成された性闘争→自我の顕在化しか考えられません。
重要なのですが、この部分がよくわかりません。わかりやすい解説を御願いします。

投稿者 大阪の歴史ファン : 2010年1月13日 12:40

人口が増えたから農業・牧畜を覚えたのではないはずです。
縄文時代は、基本的に人口は増えていない。それでも、稲作をしていた。
縄文時代を「労働」というパラダイムで考えられるのでしょうか。
そこのところで、根本的な疑問があります。
人間の歴史をそんなパラダイムで語るのはいい加減やめてくれよ、と思います。
「労働」でなければ、「遊び」で始めたのでしょう。
人口増加に対応するためなら、縄文人だって川べりの広い平地に出て行って、もっと本格的にやっているはずです。
しかし、縄文時代の稲作跡なんか、「遊び」でやったとしか思えないようなかわいらしいものばかりです。
種を植えて芽が出てくるのが面白かったからとか、野生のそれを食ったらうまかったから栽培してみたとか、これを神のお供えにしようとか、そんなような動機で稲作りをはじめたとしか思えません。
稲の作り方を知っていたから稲を作り始めたのであって、人口が増えたからだなんて、論理的にありえない。人口が増えれば、稲のつくり方を知らない人間でも稲を作ることができるのですか。人間なんか、ひと月も食わないでいたら、みんな死んでしまうのですよ。人口が増えてからつくっていたのでは、手遅れなのです。
最初の弥生人は、農耕栽培を知っていたから農耕栽培を始めたのであり、そうやって定住していった結果として人口が爆発的に増えた。そして人口が増えたから、大がかりな集約農業も生まれてきた。
人口が増えたから大規模な集落が生まれたのではない。農耕栽培ができるような平地に人が集まってきて、大規模な集落になっていったのだと思います。
べつに人口なんか増えなくても、人が集まってくれば大規模な集落になる。
人口が増えてからでは、手遅れなのです。

投稿者 J : 2010年1月13日 15:06

大阪の歴史ファンさん
コメントありがとうございます。
>農業の発祥時期はわかるのですが、農業技術の発展過程で集約農業が起きた時に争いは勃発したのだと思います。メソポタミアしかり、日本の北九州しかり、そこには水の利権やより栽培に適した土地を争って戦いが発生します。
人口増による生産様式の変遷の中で、生産様式が起因となって争いが起きるという仮説は成立しないのではないでしょうか?利権や土地にしても、占有,私有という意識が人々になければ成立しません。少なくともこの意識がない時代は、各集団が共同体という占有や私有意識などない統合様式で皆が集団第一で生活していたはずです。人口増の場合も、まずは闘争回避だと推測されます。
メソポタミアは、それ以前に寒冷化→イラン高原の遊牧部族発で略奪闘争が発生し、争う=占有,私有が始まった。弥生時代は、渡来人により階級社会=私権社会が始まり、序列社会が始まった。争いは、決して生産様式が起点ではなく、社会の統合様式が私権をめぐって争う社会になってしまったことが原因であり、その私権の成果物として、利権や土地が対象となったのだと思います。
>重要なのですが、この部分がよくわかりません。わかりやすい解説を御願いします。
上記のような私権をめぐって争う意識は、我々自身も自覚できると思いますが、「自我」というもので形成されます。極端に言えば、他人を敵とみなす意識です。これが、人類に進化する前のサル時代に形成されたのですが、集団第一の意識の中では、この自我が発現してしまえば、集団が統合できない=みな、私権を争う方向に向いてしまう。このような危険性をもっています。
今回の私たちが取り組んでいるテーマは、私権社会の引き金は何か?ですが、人々のこのような自我=私権意識の発現が起点となり、それを強引に力=序列(身分制)で押さえつける社会に至ったのではないか?と大きく考えています。

投稿者 さーね : 2010年1月14日 20:17

Jさん
コメントありがとうございます。
>人口が増えたから農業・牧畜を覚えたのではないはずです。
これは同感です。人口増で始めたのではないと思います。同じように、人口が増えてからでは遅い。人口増で食料の確保が困難になれば、例えば、他のエリアへ食料を探しに行く等、その段階で持っている生産様式に賭けると思います。
>「労働」でなければ、「遊び」で始めたのでしょう。
これに関しては、同意しかねます。なぜなら、「遊び」ができるほど縄文人に余裕はなかったからです。
>種を植えて芽が出てくるのが面白かったからとか、野生のそれを食ったらうまかったから栽培してみたとか、これを神のお供えにしようとか、そんなような動機で稲作りをはじめたとしか思えません。
僕自身は、彼ら縄文人は常に自然外圧と対峙し、食料を確保に努力してきたのだと考えています。ですので、遊びではなく自然に同化し、常に観察し続け、様々な試行錯誤をしてきたということが事実ではないでしょうか?(僕らはこれを精霊信仰と呼んでいます。宗教ではなく、彼らは自然の背後に精霊を見出し、それを逃げずに受入れたからこそ、自然外圧を突破できた)
それを証明するように、縄文晩期では気候が寒冷化し人口も激減しています。さらに縄文草創期で考えれば、もっと過酷な状況であったに違いありません。
この辺は、Jさんも理解しておられるかもしれませんが、縄文時代は、あたかも豊かに語られるところがありますので、補足させていただきました。
>人口が増えたから大規模な集落が生まれたのではない。農耕栽培ができるような平地に人が集まってきて、大規模な集落になっていったのだと思います。
恐らく、この過程は自然であると思います。付け加えて、さらに大規模化した要因として、私たちは富=私権を巡り争う私権社会が、農業生産のさらなる大規模化へと向かわせたと考えています。古代の様々な征服王朝にとっての富=税を徴収するために、農産物が対象となったという事実があるからです。

投稿者 さーね : 2010年1月14日 20:43

農耕社会であっても、私権意識は高まっていくものと思います。
ただし、それがどれだけ高度化するかにもよるだろうと思うのです。
初期の段階ではまだ人々は助け合わないといけません。
防災でも農作業でも何でもです。
しかし、自然環境の悪化で生産性を上げないといけないと
農機具や品種の改良が必要になります。
村長一人だけでなく、左官、大工など専門知識、技術を持つ人がもっと沢山いるようになるのです。
そこでコンサルタント料や技術料が発生します。
専門職が増えるにつれて、私権が増えていきます。
また、大規模な天災が農業共同体を巨大化させていったと思います。
避難民は恐らく逃亡先で小作人になるしかなかったのではないかと思います。私権がまた増える訳です。ムラとムラの戦争で負ける場合も同様です。
ただ、いかに巨大な天災でも、これだけだといかに
広域防災首長会議が行われても、郡レベルのまとまりしかない事になる。
これで仮に各首長が専門的な大臣になっても、まだこのクニは大和朝廷より狭い。
まとめるのに馬が必要な国レベルのまとまりは?
鉄器生産、製陶、織機、金属加工、土木を馬が必要なほど遠く離れた農耕共同体に伝えたのは誰か?農民ではない。
この段階で掠奪騎馬民族なのかと思います。
この騎馬民族は支配私権にプラスして商業的私権も持つだろうと思います(イスラム教徒は支配者であるだけでなく、商人でもあった)。

投稿者 パルタ : 2010年12月26日 19:10

>西洋では争いが玉突きになって負けた方は皆殺し、勝者はその>まま国家まで発展した。
皆殺しには西洋に限りませんが、3パターンある思います。
①皆殺しのケース:遊牧民が都市を占領する
②ポリス同士
③開発独裁初期(植民地主義)
ポリス同士で見られた皆殺しですが、ローマはカルタゴに対しては殲滅、
エジプト、シリア、マケドニアには服属を重視したと思います。
対応が全く違う訳です。ペルシャ、マケドニア、ローマ、
ビザンツ帝国型支配とポリス型支配は違うと思います。
次に開発独裁の殲滅ですが、快適な生活邪魔だから
そこの動植物と住民を殺すという人間中心主義が
基調にあると思います。
>メソポタミアは、それ以前に寒冷化→イラン高原の遊牧部族発>で略奪闘争が発生し、争う=占有,私有が始まった。弥生時代>は、渡来人により階級社会=私権社会が始まり、序列社会が始>まった。争いは、決して生産様式が起点ではなく、社会の統合>様式が私権をめぐって争う社会になってしまったことが原因で>あり、その私権の成果物として、利権や土地が対象となったの>だと思います。
現在の土地争いでも、やはり現実の水利権などが問題となって引き起こされていると考えます。

投稿者 パルタ : 2010年12月26日 20:27

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