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日本の官僚制の歴史(2)~科挙を戒めた江戸の学者達

こんばんは。tanoです。
今回は日本の官僚制の第2回をお送りします。
るいネットで山澤さんがまとめていただいている「中央集権=官僚国家を拒んだ日本 [1]」では古代中国から日本への官僚制導入期~日本の江戸時代まで大きく捉えています。
まずはこの投稿をこのシリーズのこれまでの復習として目を通してみてください。

中国では水田文明と遊牧文明が激しい摩擦をおこしながら、氏族社会を解体し、封建社会を生み出した。そして地方武士たちの反乱を押さえ込むために、世界でも稀な中央集権文民統治国家=科挙に支えられた官僚国家を宋代には完成させた。
他方、日本はそうした中国の圧力に抗すべく急ごしらえで「中央集権国家=日本及びその象徴としての天皇」を生み出す必要があった。しかし、縄文文明の歴史が長く、水田文明を導入した弥生時代においても、大きな戦乱の少なかった倭国は土着的な氏族共同体を保持したまま、その上に渡来系の支配階層が乗っかる形で統合されていった。従って、上は父系、下は母系という断層を孕みながらも、いずれもが血縁的集団を維持したため、支配体制も極めて世襲的色彩が強いものとなった。


このように、中央集権化された「日本も天皇」も対外的な側(がわ)だけで、内政は、それぞれの土着の農民たちとそれを束ねる豪族たちの力が強かった。そして、新規に開拓されていった農地=荘園の権益を守るための武装化が進み、中央から派遣された国司や没落貴族などを取り込んで、中央の貴族権力に対抗する武家集団を形成していった。
いいかえれば、日本は土着的・世襲的な封建制度を温存させ、中央集権化と官僚制度を拒んだといえる。そして、この後進性故に、縄文以来の共同体原理も保持され、専制君主を許さない合議制は保持された。(武家における君主押し込め、農村における一揆)
幕藩体制それ自体は確かに官僚機構をなしているが、(イ)原則世襲で合議制である(ロ)藩は独立採算制で、幕府からの収奪はなく、中央集権的ではない、という点から言って、中国のような「中央集権文民統治国家=科挙に支えられた官僚国家」とはいえず、貴族が武家に替わっただけで、封建制度をそのまま残存させているといってもいい

江戸の官僚を見ていく上で重要なのは社会の安定期に突入したという点です。
江戸時代を通じいわゆる官僚制度は全く発達せず、世襲的な武士の役職の制度が続きました。
一方、戦や内乱が長く起こらなかった江戸社会は長期的な平和を実現し、上からだけでなく下層階級からも変革の流れが起きます。百姓一揆や下級武士の登用というのもその流れではありますが、この時代、庶民総体として学問に向かっていったという点は注目すべき点だと思います。
るいネットよりこれらについて書かれた「儒学を学びながら科挙をよしとしなかった江戸の学者たち」 [2]の投稿を紹介します。

江戸時代の日本は、封建制だったからといって、勉強熱がなかったわけではない。むしろ、高かった。試験熱は高くなくとも、学校は多く、この点は中国とは大きな違いである。地方を含めて、寺子屋あるいは手習い塾や藩校がたくさんできた。調べていくと、試験制度もある。「足高の制」といわれるもので、これを通じ下級武士からも有能な人材を発掘する仕組みを持っていた。
しかしながら、試験の目的を「昇進」に矮小化することへの疑念は当時の儒学者自身にも強くあり、試験は専ら、勉学に励むことを推奨するための手段であり、選抜するには「人物重視」とする視点もあわせもっていた。「権力闘争で出世を目指す人物より、しっかり武士の心得を学んだものを採用する」という人物重視の視点こそが江戸の学問を健全なものとしていたといえる。

江戸時代の特徴は上記のように万人に学問の機会や意欲が拡大した時代であり、庶民の文字の習得によってそれまでの拡大していたお上と庶民との距離が縮まり、共認社会へと再び拠り戻した時期であったと思われます。
いくつかの切り口でこれら学問の大衆化現象が起きた江戸の社会背景を見ていきたいと思います。

1)幕藩体制とは・・・・

幕藩体制とは山澤さんが上記で書かれているように封建制の残存でしたが、江戸時代の特徴は幕府からの収奪がなく、完全に藩毎に政治的にも自立した体制が取られていたと言う事です。言い換えれば藩毎に互いに競争圧力が働き、商業や生産の発展に寄与しました。
封建社会とは序列身分が固定され閉塞した社会という印象がありますが、江戸の社会は幕藩体制により藩同士の競争を促進し参勤交代による広く市場社会を拡大していき封建社会による閉塞を打破していきました。

2)兵農分離体制と商業の発達による文字の普及

江戸時代の勉強熱はどこから来るのか?兵農分離体制と商業の発達という2つの政策にあったようです。
江戸時代の社会は兵農分離体制が前提でした。兵農分離体制とは都市に集住する少数の武士たちが村の農民を支配する体制です。中世の社会では都市化が進んでいなかった為、武士も農村に住んで直接統治することが可能でしたが、江戸に入り支配する側とされる側が離れて住む兵農分離体制の元では上からの意思は文字によって示される必要があり、行政が文書主義になります。
農民は大量の公文書を読めなければ自分たちの生活に必要な事を入手する事すらできません。また、上から下への文書だけでなく下から上への申告、陳情、訴訟の類も全て規定の形式の文書にしなければ受け付けてもらえず、要するに江戸の幕藩政治は読み書き能力を持つ事を前提にシステムが作られていたのです。
一方、都市や城下町などでは貨幣による消費経済が進み、それらに商品を持ちむ農民は貨幣経済とは無縁ではなくなります。その点からも農民は文字や計算能力なしではすまなくなり、都市、村を問わず江戸時代は日常生活に必要な手段として読み書きそろばんといった学問が定着していくのです。

3)学問の大衆化とそれを支える私塾

江戸時代はこうして幕藩体制による文字社会はシステム化されるのですが、それらに答えるように学びの場は地方から始まり、寺子屋に代表される手習塾といった私塾が多数作られていきます。民衆たちの多くは概ね7歳前後から10歳過ぎまで手習塾で学び筆道稽古や算術を身に付けていきました。

[3]
手習い塾で「学ぶ」子供たち
女の子が集った手習い塾の様子を浮世絵の様式で描いたもの/机の位置や向きがバラバラで女師匠が複数人いる点に注目したい。このような光景は江戸時代の手習い塾には珍しくなかったようだ。~それにしても勉強を楽しんでしている様子が伝わってきますね。

4)学問は振興しても科挙に慎重だった江戸の学者たち
~外国から多くの物や認識を取り入れた日本社会の基本的スタンス

江戸時代はこうして下からの勉強熱が上まで行き渡り、官僚の世界でも学識を重視する風潮が高まっていきます。試験制度もいくつか施行されました。しかし当時の学者達は試験制度を上級官僚の登用とする科挙制度への傾斜は慎重になりました。
当時中国史を学んでおり科挙の弊害を見抜いていた儒学者達の反応は以下の通りです。

【競争至上主義の弊害への懸念】
栗山は中国での先例からみて試験による学事奨励効果は大いに期待できる、としつつも、「しょせん対症の御処置」だと述べ、根本的な施策では無いことを示唆している。げんに、競争的な試験にすることの弊害は、すでに第一回の学問吟味の時点で、学問所関係者をとらえている。第一回学問吟味は、林大学頭らと幕府目付たちとの採点基準が違うことから、褒賞者名も発表できず、事実上「流れ」ている。

【立身出世の為の学問への反発】
出世を願って学問に励むということ自体に反発がある。もともと孔子の教えの中に「立身出世」の文字はなく、「学べば稼ぎはその中にあり」「富貴はあとから付いてくる」という考えである。享保の改革時に各種の学事振興策を検討した室鳩巣も、「然れども、自分に立身を願い申し書く、是れ以って士の風儀を失い申す事に御座候」「我と年労を自ら陳べ候て官位を乞い候事、第一士の廉節を傷ない申す事に御座候」と述べて立身を願う心根と廉節の気持ちが両立しないとしている。

5)科挙に代わる評価システムの構築
江戸時代は学問を奨励しながらも評価システムにおいては人物重視を貫いています。

>8代将軍徳川吉宗のもとでいわゆる「享保の改革」のブレーンとなった儒者・荻生徂徠なども科挙の試験よりも、「有徳」の人に着目して行う上司による平常の人物・行動の観察のほうが、より合目的的な選考ができると述べている。そのような観察による人物評価のもつ選抜における効果は、柴野栗山も支持した。栗山が、上司(組くみがしら頭など)は「常に其の組子の人柄をも呑み込み<後略>」などと、部下の観察をよく行うべきことを訴えていた。このほかにも、試験の競争性や射幸性を批判する声は大きく、たとえ盛んになっていたのだとしても、学問吟味方式が識者の学理的な支持を得ていたとは思えないのである。

江戸時代は諸外国に対して鎖国したと言われていますが、中国を初め西欧にいたるまで多くの物、学問、文化を積極的に取り入れた時代でもありました。しかし古来の日本がそうであるようにそのまま取り入れるのではなく、日本風に改編、解釈、時に拒否し、自在に取り入れる内容を選択していました。
その中で中国であきらかに失敗していた科挙は明確に拒否しており、現在の学者にない先見性を江戸の学者達は備えていたことが伺えます。
また学問に向かった大衆の意識も決して個人の登用ではなく藩やお家の利益を守り、繁栄させる為に向かったものでした。上からも下からも科挙が施行させる足場はなかったものと思われます。
しかし、これほど優秀であった日本人は明治になって豹変します。
彼らの何が変化したのか?その要因は何か、そのまま現在の官僚制の弊害に繋がる分析になると思われます。2週間後に掲載します日本の官僚制の歴史(3)の記事に期待してください。
参考)NHK出版 教育を「江戸」から考える~辻本雅史
   PDF:江戸時代の評価における統制論と開発論の相克~武士階級の試験制度を中心に
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『官僚制の歴史~官僚制と試験制の弊害とその突破口を探る』シリーズ
新テーマ「官僚制の歴史~官僚制と試験制の弊害とその突破口を探る」 [4]
官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史1 [5]
官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史2 [6]
春秋戦国時代、何故、中国では邑(共同体)が解体されていったのか? [6]
中国史にみる官僚の誕生~武力統合の必要から官僚の肥大化へ [7]
日本の官僚制の歴史(1)~科挙が根付かなかった日本 [8]
軍と官僚制の罠 ~古代国家の官僚制~ [9]

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