| メイン |

2014年02月12日

日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 4、戦国大名による領国統治の実際

%E6%AD%A6%E7%94%B0.jpg
武田24将像。画像はこちらからお借りしました。
皆さんこんにちは
日本の帝王学、4回目の今回は戦国時代を見てゆきます。
ドラマや映画でも取り上げられる戦国時代。
「戦国時代」と言うと、武田信玄や上杉謙信、織田信長など、まさに「帝王」の名にふさわしい英雄豪傑たちが天下獲りをめざして華々しい合戦絵巻を繰り広げていた様子が思い浮かびます。
しかし、本当に戦国時代は合戦に明け暮れていた時代だったのでしょうか。
信玄や謙信は、家臣や領民に対し本当に強大な権力を握っていたのでしょうか。
戦国時代とは実際どんな時代だったのか、まずはそこから考えてゆきたいと思います。

 にほんブログ村 歴史ブログへ


戦国時代は、確かに利害衝突による武力紛争が各地で行われた時代ですが、決して戦争ばかりしていた時代ではなく、経済活動や土木開発が飛躍的に伸びた時代でもありました。
有名な武田信玄の「信玄堤(しんげんづつみ)」は、高度な土木技術による一大灌漑事業です。
織田信長の「楽市楽座令」は経済発展のための規制緩和政策であり、
様々な大名が行った「検地」は、領内の生産高を正確に把握し、農政と税政を間違いなく執り行うという一面がありました。
戦国大名とは単なる戦上手のお侍さんではなく、民政、農政、経済、交通行政、土木、宗教政策など、多面的な公共政策を司る優れた能力が求められていたわけです
一方、室町~戦国時代は、大衆の時代とも言われます。
農具の進歩と新田開発による生産力の向上で力をつけた農民たちは「惣」と呼ばれる強力な村落共同体の自治組織を持ち、旧態依然とした支配者からの搾取を時には実力ではね付けました。
武士階級もまた、中央の幕府組織から離れて、各地方に土着し直接農民を支配する「国人」「地侍」といった人々が力をつけてきます。
下層階級が力をつける中で身分秩序が混沌とし、前時代のような階級や血統による明確な指揮系統、統治機構は意味を成さなくなりました。
この時代の統治者には、こうした社会状況に適応した統治方法=帝王学が求められたのです。
さて、戦国大名というとその強大な権力で領国内の家臣・領民を支配・統制していると思われがちですが、その実態はずいぶん違ったようです。
ここで、サイト「教科書が教えない歴史」から、
「武士の公共的性格~戦国大名 武田信玄を例に」の記事を抜粋し紹介します。

「武士の公共的精神」の由来
14世紀半ばの南北朝動乱から戦国時代までの間は、いわゆる中世的な秩序が崩れ、庶民層にまで社会的変動がおこった時代である。各地域社会には、自分たちの利益を守るために、国人や地侍(武士化した上層農民)などが中心となって、「惣」とか「一揆」などと称する自治的・自律的な共同体組織を形成した。「惣」をつくる村民らは平等意識をもち、村の運営は「寄合」という村民の合議で決定され、運営される。「惣」は、村の規約、警察権の行使、納税のとりまとめなどを通じて結束し、連帯意識の強い組織に成長していった。彼らは、各地で幕府や守護大名の支配に対抗し、土一揆をおこし、下剋上して守護を国外追放する場合すらあった。
しかし、そうした共同体組織は、戦国大名の出現とともに、しだいにその家臣となり、やがては武士団に編制され、大名の連合体としての幕藩制国家に至る。つまり、いわゆる中世的な旧体制(幕府や守護大名)に対して反発した「惣」や「一揆」は、戦国大名という新しいタイプの大名のもとに吸収されてしまったのである。
この間の推移について、教科書的理解では、戦国大名が強力な支配体制をしいたために、「惣」や「一揆」がそれに屈服し、統制されたとするのだが、尾藤氏はこれを逆に捉えた。
そもそも、「惣」や「一揆」は、共同体全体の意見や利益を重視する自治的・自律的な性質が強いものである。そのため、これを弾圧するような旧体制には決して従わない。それにもかかわらず、彼らが戦国大名に従っていった理由は、その自律的・平等的な性質を認める新しい体制を、戦国大名がつくったからなのである。  
このように理解すると、戦国大名が強大な権力で一方的に支配したイメージは一変せざるを得ない。戦国期の大名とは、領国の諸集団の自立性を認めつつ、領内全体の意見や利益を調整する、いわば公共性を体現する存在だと解釈するほうが合理的なのである。

以上引用おわり
戦国大名とは、力によって領民を支配した存在ではなく、
むしろ力による支配を続けようとする旧勢力を跳ね飛ばし、自分たちの権益を認め、守り、調整することが出来る、その期待に足り得る人物を大衆が担ぎ出した、というのが実態のだったというのです。
専制君主のような戦国大名のイメージが180度転換します。
これは、山梨が生んだスーパースター、武田信玄(俗名:晴信)ですら例外ではありません。
むしろ信玄公においてその傾向が顕著です。
さらに引用を続けます。

武田晴信の公共性
信玄堤は、氾濫する河川に堤防を築く治水事業として有名である。この事業の目的は、大名が年貢収入を確保するためという点が強調されている。大名が、重税に苦しむ領民を顧みず、税収にのみ腐心していたかのような図式だ。もちろん、領国経営のための財源確保が狙いでなかったとは言わないが、むしろ、農民の生活安定をめざした公共事業と理解する方が自然である。
この治水は武田家の直轄領のみならず、晴信の直接の年貢収入にならない国人・地侍の村落を含め、領国全体に及んでいる。やはり領国経営の責任者として、全体の利益・福祉を実現していると解釈できよう。
詳細な検討は稿を改めるが、他にも領内の寺社の祭祀、交通権の掌握、枡・秤の度量衡の統一、金山の開発など、公共性をそなえた政策として評価できるものが多い。
 
武田晴信を戦国大名の一典型と見たとき、従来の教科書的解釈は大きく変わってこざるを得ない。戦国大名は、領国を統一する諸政策を通じて、国人層・地侍層、地下衆などの諸集団を調整し、領国全体の意思や利益をまとめる役を担っていた。こうした視点で戦国大名の施策を見直せば、彼らが公共性の体現者として存在していたことが明白である。
下剋上の解釈
戦国時代の社会を授業する場合、重要なキーワードは下剋上である。この理解なしに土一揆はもちろん、戦国大名の群雄割拠や、織田信長にはじまる天下統一事業も説明はできない。
教科書では、国人一揆や、北条早雲・斎藤道三などを例にあげ、下の者の力が上の者の勢力をしのいでいく現象であると記述する。これに限らず、巷間知られる下剋上とは、自らの野心や野望のために権謀術数をめぐらし、実力ある者がのしあがっていくというイメージである。戦国時代という乱世だからこそ可能な、非道で無法的な行為と印象づけられている。
しかし、戦国大名が領内の諸集団を束ね、公共的な政策を実現する存在であったとすれば、下剋上という社会現象に、また別の解釈が成り立つのではないだろうか。
 
(中略)
確かに下剋上は、旧体制の側から見れば、非道で無法な行為に他ならない。しかし新たな体制、公共性をもった領国経営を望む側から見れば、理のある正当な行動であった。  
公共性の実現者として戦国大名をとらえると、下剋上は非合法ではあるが、領国の公共性を保持するための行為と考えることも可能であろう。江戸時代の藩経営でいえば、主君押込のような機能である。現代的にやや極言すれば、首長の「リコール」のような性格ではないか
戦国大名は領国内の諸集団を家臣化したと言っても、中世の家人や所従ごときには扱うことはできなかった。かれらの自立性を認めつつ、領国を統一する新しい社会秩序をつくりあげねばならなかった。新体制に脱皮できなかった者は、下剋上の憂き目にあうからである。

以上
引用終わり
この「日本の帝王学」シリーズ、その前半において私たちは、
日本においては縄文体質に支えられた共同体規範が極めて強固であり、時の為政者はこの大衆による「共同体」を活かし、ネットワーク化し、撫育する事で社会の安定を図ってきたことを学んできました。
戦国時代もその例外ではありません。
それどころか、支配者には、「惣村」や「国人」に代表される力をつけた共同体組織の基盤や利権を守り、調整するといった、共同体への直接統治が求められました。
これは、それまでの「ネットワーク化」や「撫育、撫民」といった、ある意味「上から目線」の政策から一歩踏み込み、統治者が共同体の中に自ら入り込み差配してゆく心構えが要求されました。
そしてこの転換が出来ない旧態の支配者は容赦なく淘汰された時代だったのです。
その姿は、時代劇に見るようなかっこいい戦国武将や、あるいは同様の動乱期に西欧や中国に現れた専制君主像とは大きく異なります。
しかしこれこそが共同体を国家の基盤とするわが国ならではの帝王学であり、戦国動乱期はその本質がより浮き彫りになった時代と言えるのではないでしょうか。

そしてこの精神は、次の江戸時代の「武士道」へと受け継がれます。
ご存知のように、武士道は、もののふの心構えながらその中身は「強けりゃいいじゃん」といったものではなく、為政者としての全人教育的性格を帯びていました。
その中身を次回は詳しく見てゆきたいと思います。ご期待ください。

投稿者 yama33 : 2014年02月12日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2014/02/1567.html/trackback

コメントしてください

*