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2009年09月11日

日本四大財閥の出自は?

日本の四大財閥である、三井、三菱、安田、住友。
これらの財閥は明治期において、その財力により、政府への影響力は大きかった。
戦後GHQにより真っ先に解体されたのも財閥でした。
では、それほどの力を、どうして持ちえたのか?
安田を除く、三大財閥は、どれも、元は江戸の商人であったのは知られているが、さらにその昔は何だったのか?もっと大元の出自を探ることで、その影響力の源泉を見て行きたいと思います。
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①三井財閥
 三井家は、宇多源氏(近江源氏)佐々木氏出身である高久を、藤原道長の息子長宗の二十代後の成定が養子に迎えて、源氏と藤原の血が混血して現在に至ります。
 そして時代は下って、三井高利が伊勢国・松阪から江戸へ出て呉服屋を出店したことから三井家の事業は始まり、その後、京で両替商も兼業し、江戸時代を通じて三井家の事業の柱となります。
 三井家発祥の地である伊勢松坂は御三家紀州藩の領地であった為、江戸時代を通じて紀州徳川家とは強いつながりがあり、表千家ともつながりがありました。
【略系図】 間をかなり飛ばしています
三井越後屋(江戸時代) ― 三井高利(伊勢国松坂の商人) ― 三井高安 ― 三井高久 ― 近江佐々木氏 ― 六角氏 ― 宇多源氏 ― 宇多天皇
②三菱財閥
 岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築きました。岩崎弥太郎の父親は土佐の浪人岩崎彌次郎であり、その父親は、土佐の郷士岩崎弥次右衛門。そのさらに祖先を辿ると元々、甲斐源氏武田or山祇氏一族の久米氏か三好氏の末裔と言われています。
【略系図】
三菱商会<政商>(明治) ― 岩崎弥太郎 ― 岩崎彌次郎(土佐の浪人) ― 岩崎弥次右衛門(土佐の郷士) ― 甲斐源氏武田 ― 甲斐天皇(山祇氏一族の久米氏か三好氏との説も)
③安田財閥
 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれます。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていました。
 創設者は安田善次郎。彼は20歳で奉公人として上京し、26歳で露店の両替商を始め、慶応二年に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得ます。
 そして、明治20年に安田保善社を設立して、財閥の要としました。
 この安田家は、他の三大財閥と違い、皇族出身ではないようです。
【略系図】
安田善次郎 ― 安田善悦(下級武士)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 最後に住友財閥に行きたいと思いますが、住友財閥はかのロスチャイルド一族よりも古い歴史を持ち、なおかつ創業者が二人も存在するという特異な財閥です。そして、その出自は一番古い・・・。
 そこで、住友財閥に関しては、他の財閥よりも、より詳細に見て行きたいと思います。
④住友財閥
 世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つ住友家ですが、住友の姓は、戦国の末、もともと先祖に順美平内友定という人物がおり、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目にその子小太郎忠重が父の姓と名をとって「住友」の姓を称して室町将軍に仕えて、備中守に任じられたのに始まり、この忠重が「始祖」ということになります。
 室町将軍に仕えた「始祖」住友忠重の子、頼定は足利義晴に仕え、頼定の子定信は刑部承と称し、定信の子定重は、今川義忠に仕えるが、定重の子・信定の代になり、今川氏が滅ぶと、摂津の中川清秀に仕え、入江土佐守と称し、中川十六騎の一人として知られました。
 また、入江土佐守信定の子、政俊は越前国の柴田氏に仕え、若狭守と称しました。
 そして、柴田勝家と共に北庄城で滅んでしまうと、政俊の子長行は、徳川家康の子で結城家へ養子入りした結城秀康に用いられるようになりました。
 その長行の二男で兄の興兵衛に代わって家督を継いだ小次郎政友は、天正年間に生まれ、涅槃宗の開祖、空源乃意上人にしたがって仏門に入り「文殊院空禅」と称しました。宏学達識で涅槃宗の後継者と見られていましたが、寛永年間に涅槃宗が天台宗に吸収されたのを機に還俗し、洛中に、書籍と医薬品を商う「富士屋」を開き、号を嘉休と称し修道三昧の生活を始めました。
 これが「町人住友家」の興りであり、この政友が「家祖」と崇められています。
 次に「業祖」とされるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、彼は涅槃宗の信徒であり、政友の檀家であり、政友が還俗して「富士屋」を開く際、物心両面で政友を助けた人物です。この人はオランダ人もしくは中国人から学んだ技術を応用し、南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、天正十八年(1590年)京都に銅吹所を設けました。後にこの銅吹所が住友家の家業となったので理右衛門を業祖と崇めることになります。
 また、「家祖」の政友には一男一女があり、一男・政以は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は政友の姉婿にあたる理右衛門の長男理兵衛友以を養子に迎え、ここで「家祖」と「業祖」が結合する形になりました。
 そして、住友理兵衛友以の孫にあたる吉左衛門友芳の代には、元禄4年に伊予の別子銅山の開堀に着手。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、重要な輸出品として日本を支えることとなると共に約280年にもわたって住友の重要な事業の柱となり、住友家の歴史の中では、この四世吉左衛門友芳をもって、「住友家中興の祖」としています。
 明治時代に入ってからは文化事業にも関わり、十五代目吉左衛門友純は大阪府立中之島図書館の建物を寄贈。その子十六代目吉左衛門友成はアララギ派の歌人でもあり、斉藤茂吉、川田順(住友本社の重役でもあった)とも交流がありました。
 なお、住友家当主が「吉左衛門」を名乗るようになったのは、三代当主住友友信(友以の子)からとなっています。
【略系図】
泉屋(蘇我理右衛門)+富士屋(江戸時代) ― 住友政友(僧侶を経て商人に) ― 住友忠重 ― 平高望 ― 桓武天皇
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 以上、日本四大財閥の出自を見てきましたが、そのどれを見ても、かつての天皇家であったり、天皇家に仕えた(古代において日本を支配した)藤原氏、蘇我氏にたどり着くことになります。
 明治になって、日本の民主化が進み、歴史が大きく転換したように見えましたが、その実は、一度は没落した古代の豪族、皇族が力を取り戻し、日本支配の地位に舞い戻った時代であったことがわかりました。

投稿者 jomon10 : 2009年09月11日 List  

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コメント

現代は、外圧が低下してしまって、古代前のように解脱の必要性も著しく低くなって、おまけに共同体も解体されてしまって、祭りといえば客寄せのショーのようになってしまいましたね。
祭りをやって一体感が深まって楽しくなるようになるためには、共同体意識を深めることが、とても重要だと思いました。

投稿者 牛 : 2009年11月15日 17:52

牛さん
衰退の要因の一つに、トランス状態を生み出せない
現代の祭りもあるのではないでしょうか。
つまり、日本では違法である元来聖なる植物であった
ものの使用が制限される等、祭りの本質の一つが
抜き取られれば祭りの意味もないですからね。

投稿者 スバール : 2009年11月15日 22:45

分かりやすい挿絵が付いていて、読みやすかったです。
「祭りの本質とは、究極の共認充足である。」と言えそうですね。
 ところで、「祭」をネットで検索してみました。
『祭(まつり)もしくは祭り(まつ-り)とは、神霊などを祀る儀式や神事のこと』(by ウィキペディア)
とあり、「まつり」という言葉が生まれた時点で既に、始原人類が行ってきた【精霊と交信する】という行為から遠くかけ離れたものになっていたのかも知れません。

投稿者 カッピカッピ : 2009年11月16日 23:01

牛さんへ
祭りの議論の中で、解脱にも二種類あるという話しが出ました。外圧発でこれをなんとかしようとするための解脱(極限時代型)と不全から解消される開放感→充足(喜びと感謝)を高めるための解脱です。
文明以降の解脱は後者が中心になり、現代に至ってはそれがより日常的になって貪(むさぼ)る→堕落ようになっていったのでしょう。
そうなると、外圧▼で充足度(質)の低い解脱がいたるところで蔓延し、充足しない解脱をやり続ける。つまらないテレビを見続けているといった具合に…
そのことに気が付けば、解脱充足の追求も課題のひとつとして取り組むのもありだと思いますね。

投稿者 くまな : 2009年11月17日 15:59

スバールさん
始原人類は、現代人よりも遥かに容易にトランス状態に至ったと想像しています。凄まじい外圧に囲まれていたわけですから、充足を求めるエネルギーは半端ではなかったと思われるからです。
現代などは、酒の力を借りてもその境地には及びもつかない。祭りもその延長上に成り下がってしまった…
外圧が低下したなかで、充足をどう追求するか、集団性をどう再生するかは、現代人に課せられた課題なのでしょう。

投稿者 くまな : 2009年11月18日 05:04

くまなさん
縄文人の平均寿命はいくつだったのでしょうか?
おもうんですが、寿命が短い分、退屈では
なかったように思います。
翻って現代人はあまりに退屈すぎるように思えます。
>外圧が低下したなかで、充足をどう追求するか
寿命が延びるほどに充足から遠のいてしまうような
きがしてなりません。こういったら夢も希望もないですが、
今後ますます医療が発展し、栄養に満たされるとなると、
人類はますます退屈になり下がり、古代の生命はじける
祭りの本質は永遠に再現不能と考えます。

投稿者 スバール : 2009年11月18日 22:27

スバールさんへ
ちょっと古い記事ですが、現代と縄文時間の比較について書かれた興味深い記事があります。
この記事の中で縄文時間は物質文明化した現代人とでは40倍の差があることが示されてます。それだけゆっくりと時間が流れていたというようです。
>ところで、現代の日本人は大量のエネルギーを使うことによって、時間を速めて経済的な利潤を産み出そうとしています。これは縄文時代に生きた人と比べれば、40倍もの速度の時間が流れていることになります。
詳しくは記事をご参照ください。↓
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/09/000322.html

投稿者 tano : 2009年11月19日 02:15

tanoさん
なるほどそうゆう視点は全く欠けていました。
縄文人が散歩でゆったり過ごすなら、我々
現代人は新幹線に乗って生活してるような
もんですかね。ありがとうございました。
***紹介記事の最後の赤いメッセージ
が怖いです(笑)こちらのブログのサブタイトル
なのは承知していますが、赤色大文字で
迫ってこられると寄付せんといかんのかなと(笑)

投稿者 スバール : 2009年11月19日 22:11

スバールさん
>人類はますます退屈になり下がり、古代の生命はじける
祭りの本質は永遠に再現不能と考えます。
退屈というのは、これをやり過ごせない人類にとって、苦痛なのかもしれません。それをつまらぬことで埋めあわせると、充足からは程遠くなりそうです。
現代は人々が充足を強く求めている一方で、本当の充足の場がどんどんなくなっています。人間関係も充足関係になりません。そのあたりはまさに不全であり、まずはそのあたりに気づいた人たちがまつりを再生する原動力になると思います。

投稿者 くまな : 2009年11月20日 22:49

くまなさん
今の人類が求める充足は、不老不死でしょうかね?
女性は若さをノイローゼのように追い求めますが、
老いることほど美しいものはないと思うんですが。
毎朝太陽を拝んで、先祖やまだみぬ子孫に感謝し
死んでゆく、これが僕の最大の充足です。
返事はよろしいです。いろいろ勉強になりました。

投稿者 スバール : 2009年11月21日 23:17

カッピカピさん
>「まつり」という言葉が生まれた時点で既に、始原人類が行ってきた【精霊と交信する】という行為から遠くかけ離れたものになっていたのかも知れません。
そうですね。縄文人のまつりとは全く違うと思います。
縄文人が行っていた“まつり”というのは踊りや祈りです。また交信を試みる対象は特定のものでなく、とりまく自然のすべてです。前提は自然への畏怖の念です。
世界を見渡すと、大河のほとりなどにいた人類は気候変動に伴い農耕を発明します。豊かになるにつれ不全も縮小していき、自然に対する畏怖の念も薄らいでいきます。自然の改変を進め精霊から離れていきます。そうなるとまつりへの収束度→充足度は低下します。
精霊は段々と人間にとって都合のよいものになっていきます。
権力者が支配のために利用したり、願い事をかなえてくれるものへと変質していったわけですね

投稿者 くまな : 2009年11月24日 12:11

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