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2009年07月05日

日本の穢れ意識と軍事忌避

こんにちは、みっちーです☆⌒(*^∇゜)v
平安時代の日本は、中国から力の序列原理に基づく律令制度を取り入れながらも、次第に中央の軍事(力)を縮小していくという極めて異常な行動に出ています。
今回はこの異常な事態の真相を掴んでいく上で、
『日本の神道にある穢れという概念と軍事との関係』について追及してみたいと思います。
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そもそも神道とは、日本古来の八百万の神を祭っていく宗教のことです。ここでの神とは、普通では見られない極めて優れた特質を持っているもののことを指します。ですので、いい神もいれば、悪い神もいるし、ヤマトタケルのような元人間の人格神もいれば、千年杉や川などが神になる場合もあります。
そういった神を祭るのが神道なのです。
ちなみに西洋のキリスト教では邪なもの(≒悪い神)は祭るものではなく、退治する対象となります。
ではなぜ日本の神道では、悪い神も祭るのか?
それは、悪い神でも丁重にお祭りしてなだめていれば、良い神に転化するという考え方があるからです。これはそもそも悪い神とは、不浄や穢れが憑いたものだという考えからきています。そしてこの穢れは、浄化することが出来ます。(代表的な浄化方法には、禊(綺麗な水での洗い)や祓いがあります。)
だから悪い神も、いつかは穢れが浄化され良い神になるようにと、子々孫々まで丁重にお祭りするのです。よく神社の入口には水場(手水(ちょうず))がありますよね?あれは社に穢れを持ち込まないように、ひしゃくで口を洗ったり、手を洗ったりする禊の場が設けられているのです。(公園の水飲み場とは、目的が違うんですよ☆)
ではここでなぜ穢れが生じてしまうのか?
それは、争い(怨念)があるからだと日本人は考えました。特に死や人を殺生するというのは穢れを受けることですので、貴族階級を始めとして忌み嫌われていきます。穢れてしまったときには、禊や祓いで取り除けるが、そもそも穢れないことを最善と考えたのです。
8世紀前半には律令制度が制定されていますが、穢れの意識から最低限の軍事だけが、律令制に取り込まれました。防衛軍としての「兵部省」と警察と検事を担う「刑部省」です。
それ以外の軍事職は、その時々に応じて律令から外れた律令外(りょうげのげ)として任命を行います。有名なものとしては、征夷大将軍 があります。征夷大将軍はもともと東国遠征のための臨時の軍事職だったのですが、後には武士の最高職としての地位として利用されています。
しかし、最低限の軍事を制定したものの平安後期には穢れの意識から、貴族ではやる人がほとんどいなくなってしまいます。また同様に刑部省も、犯罪や処刑も穢れに触れるということで、捉まえても処刑せずに逃がすという珍事も起こったりして、終いには担い手がいなくなってしまいます。
中央から軍事や警察がいなくなればどうなるか?
この結果地方どころか中央までも治安が乱れていき、最低限の治安(京都警備や目に余る盗賊)を確保するために、律令官が制定されるようになります。もちろん軍事に関連する令外官は忌避されていますので、地方の下級貴族(役人)が担っていくようになります。これが後の武士へと繋がったのではないかと思います。
<軍事に関連する令外官(参考)>
◆征夷大将軍
征夷大将軍は、奈良時代から平安時代には、東国に派遣された将軍の呼称の一つであった。略して将軍、公方、大樹、大樹公、御所などとも呼ばれた。
◆鎮守府将軍
鎮守府将軍は、陸奥国と出羽国の兵士と他国から来て両国に駐屯する兵士を指揮し、陸奥国と出羽国の軍事を統括する任にあたっていた。「将軍」と名がつくものは、鎮守府将軍を除けば臨時の官職だったので、鎮守府将軍は平時にただ一人の将軍であった。しばしば管轄地域を同じくする陸奥按察使が兼ねて政軍両権をあわせた。
◆検非違使
京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。司法を担当していた刑部省、警察・監察を担当していた弾正台、都に関わる行政・治安・司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。
◆押領使
警察・軍事的官職。延暦14年(795年)、防人の移動に携わっていた任務が文献に初めて登場している。このときの職務は兵を率いたのみで、実際の戦闘には服役していないが、やがて押領使の職務内容は、移動させる兵の戦闘等の指揮官へと変化していく。
◆追捕使
警察・軍事的官職。初めは臨時の官職であったが、後に諸国に常設されるようになった。最初に設置されたのは932年(承平2年)で、当初南海道で頻繁に出没していた海賊・凶賊を掃討する目的で設置された。「追捕」は「追い捕らえる」の意で、元々軍事的役割を含んでいなかったが、海賊、反乱などを鎮圧するという目的から、実際に戦闘に当たることが多かった。
つまり穢れ意識により貴族階級(朝廷)から軍事は忌避され、中央の軍事(力)は縮小していきました。もちろん軍事縮小により、日本の治安は乱れ、以降の武士が台頭していくという時代へと向かっていくのです。
ただここで2つの疑問が湧いてきます。
①軍事を忌避した貴族(朝廷)は何をやっていたのか?(その意識は?)
②軍事を担った武士の穢れの意識はどうなっていたのか?

この2点について、今後みなさんと追求していきたいと思います。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。

投稿者 staff : 2009年07月05日 List  

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