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2009年07月02日

朝鮮半島史にみる中央集権体制の弱点~無能官僚の量産制度~

中国や日本と同様、朝鮮半島も唐や宋の律令を導入し、中央集権制度を敷いてきました。
その中央集権化の流れは、百済・高句麗・新羅とも5~6世紀にかけてはじまっていました。
しかし、中央集権体制を敷いて国を安定させようとすると、逆に国自体が滅ぶという結果になり、本格的な朝鮮半島における中央集権の確立は、高麗王朝、李氏朝鮮の誕生を待たなければなりません。
ではなぜ、朝鮮半島において、中央集権が中々確立できなかったのでしょうか?
今回は朝鮮半島の興亡史から見える、中央集権体制の弱点を見て行きたいと思います。
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 まず以下に、朝鮮半島における王朝の興亡を簡単に記します。
 

◎原三国時代(BC108~4世紀中葉)
  ・楽浪郡(BC108年~313年)
  ・馬韓 (BC2世紀末~4世紀中葉)
  ・辰韓 (BC2世紀末~4世紀)
  ・弁韓 (BC2世紀末~4世紀)

 

◎三国時代(4世紀中葉~676年)
  ・高句麗(BC37年~668年):4世紀頃から楽浪郡と玄菟郡(遼東郡)も含まれていく
  ・馬韓→百済 (346年~660年)
  ・辰韓→新羅 (356年~935年):676年~935年を統一新羅と呼ぶ
  ・弁韓→伽耶諸国(4世紀~562年)

 

◎統一新羅(676年~935年):百済、高句麗を倒し、半島を統一
  ・後百済 (892年~936年):旧百済勢力が新羅内に国を興す
  ・後高句麗(901年~918年):旧高句麗勢力が新羅内に国を興す

 ◎高麗(918年~ 1392年):後高句麗が半島を統一

 

◎李氏朝鮮(1392年~1910年):朝鮮王朝とも呼ばれる

 以上、見ていただいたように、朝鮮半島では、古来様々な王朝(国)が興っています。
 この中の三国時代に当てはまる高句麗、百済、新羅はこぞって、国を安定させるために、唐、宋の律令制度を取り入れて、中央集権を進めました。
 しかし、どの国でも上手くいかず、逆に滅ぶという結果になっています。
 では、どうして中央集権体制を敷いて、国を安定させようとすると、国が滅ぶのか? 
 それには大きく分けて、外的要因内的要因の二つがあります。
  

1.外的要因
   百済    :唐、新羅、高句麗による攻撃
   高句麗   :唐、新羅による攻撃
   統一新羅  :唐との戦争
   高麗    :元、紅巾賊、倭寇による攻撃

  

2.内的要因
   百済    :クーデター(支配勢力の相次ぐ交代劇)
   高句麗   :中央貴族の分裂、王の息子によるクーデター
   統一新羅  :後百済、後高句麗(地方豪族)による反乱
   高麗    :後百済(地方農民の反乱)、武官と文官の政権闘争

 この二つの要因、特に内的要因(中央と地方の力が拮抗しているため、地方豪族の力を抑えることが出来ず、クーデターや反乱が起こる)により、中央集権が上手く機能せず、機能する前に、戦乱になり滅亡するという結果になります。
 つまり、中央政府の力が確固たるものになっておらず、さらに、国内に敵対勢力を残存させており、さらには、他国からの外圧が厳しい状況にも関わらず、中央集権体制を敷こうとするから失敗するということが分かります。
   
 しかし、李氏朝鮮のように完全に中央集権化すると、国力(軍事力)が衰退する。ということも起こっています。
 その要因は徹底した文官統治(官僚政治)にあると思われます。
   その文官統治の中身を見ていきますと・・・
 まず、李氏朝鮮になって、儒教(朱子学)が国教になると、武官の地位は大きく失墜し、文官による国内統治が始まります。そして、地方の軍事力、経済力を徹底的に衰退(反乱を起こさせないよう、地方豪族の私権を完全否定)させ、終いには、武官によるクーデターを恐れて、中央の軍事力さえも排除するようになります。そうやって、文官の地位が確固たるものになっていきます。
 そして、その地位の向上に反比例するように、文官自身は無能化していきます。
 そもそも官僚になるには、科挙に受からなければなりません。
 その科挙試験では四書五経の膨大な知識が必要であり、その勉強のためには、それなりの経済力が必要であったため、必然と科挙試験を合格し官僚になれたのは、両班(官僚機構・支配機構を担った身分階級)が大多数でした。こうして李氏朝鮮では、両班階級が事実上官僚機構を独占し、特権階級になっていきました。
 その科挙試験内容も、古典の暗記に終始しており、考えさせるような問題ではない上に、官僚になってからも、王に忠実なだけの何もしない官僚が増えていきました(官僚内部の小競り合い(権力闘争)はありましたが)。
 そして、その古典(儒教)の通りに労働を忌み嫌うようになっていき、官僚の無能化が進んでいくことになります。
 李氏朝鮮初期の両班は人口の約3%に過ぎませんでしたが、文禄・慶長の役(1592年)や後金の胡乱(1636年)により身分制度が流動化し、李氏朝鮮末期には国民の相当多数(地区によっては7割以上)が戸籍上両班階級(労働しない階級)となることで、次第に国内が無能者だけになって行き、軍事力も経済力も衰退していくことになりました。
 また、その軍事力の衰退は、日清戦争の契機となった農民の反乱すら抑えられないほど、進んでおり、世界が戦争の時代へと突入する時期になって、致命的な弱点となり、大戦中の日本の支配、大戦後のソ連、アメリカによる支配を許すことになってしまいました。
 以上見てきたように中央集権制度は国内の大きな争いは、起きにくくなりますが、軍事を放棄し、無能者を量産してしまうため、他の国が武力国家であり、私権を第一に考えている限りにおいては、非常に脆く、危うい制度であり、一見、中央集権制度は国力を増大させるための制度だと思われますが、その内実は、逆に国力を衰退させる制度であったということがわかります。 
 強大な国であった清ですらも、官僚の無能化+軍事力の衰退により、富国強兵(近代化)をはじめたばかりの日本に負けてしまうほどでした。
 官僚の無能化というところは、今の日本においても起こっていることであり、李氏朝鮮の失敗は全て、中央集権制度と官僚制度の限界を示していると思われます。
 日本は果たして、このままの体制で良いのでしょうか?

投稿者 jomon10 : 2009年07月02日 List  

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