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2021年03月25日
日本人が最も幸せであった縄文時代-妻問い婚による母系集団同士が密接につながっていた平和な連帯社会
日本の縄文時代は、紀元前1万5,000年前から紀元前約400年前までであったとされています。当時の地球の気温は今より数度高く、それは北極と南極の氷を融かし、現代から6,000年ほど前の縄文海進期と呼ばれる頃には、地球の海面は今のそれより5から8メートル高かったと思われます。なぜなら、今それほどの高さにある土地に当時の貝塚跡が多数見つけられているからです。
当時の東京湾の海岸線は、今より50キロメートルほど奥まったところ、例えば現在の埼玉県久喜市栗橋辺り、にあったと思われます。その分当時の平地は小さかったのですが、人口学者の推計によると、当時の日本、と言ってもまだ日本という国家はありませんでしたが、の全人口はおよそ2万人ほどという現在の人口(およそ1億2,000万人)の6,000分の1という小ささですから、当然土地が足りないということはなく、平均して1乃至数キロメートルの距離を隔ててあった隣の集落との土地を巡っての争いはありませんでした。
極めて安定した社会が1万年以上も継続した平和な社会でした。
縄文海進期から縄文時代が終わるまでの6,000年間弱に人口は2万人から20万人、あるいはせいぜい30万人にしか増えていません。その間の人口増加率を計算してみると年平均0.05パーセント足らずということですから、非常にゆっくりしていますが、それでも平安時代以上の速さで人口は増えたということです。ゆっくりと、しかし着実に人口は増え続けました。増えたあとも人口は現在の600分の1から400分の1にしかすぎませんので、まだ土地不足ということではなく、狩猟採取可能な食料の量に応じた穏やかな生活であり、隣の集落との境界争いもありませんでした。
一つの集落の大きさは、住居が3から10棟、人口はせいぜい数十人ほどの規模でしかなかったので、生活単位をそれで完結していれば近親婚になってしまいます。そこで男たちは頻繁に他の集落の女のもとに通っていました。つまり”妻問い婚“が原則であった、ということです。日常生活は自給自足であったのですが、互いの伴侶だけはそうはいかなかった、と建築家であり縄文文化にも明るい上田篤は説明します(上田篤著『小国大輝論―西郷隆盛と縄文の魂』〈2012年〉より)。
「女は母として集落に定着し、男は女のもとへ通った。そして子供は女のもとで育てられた。そのため縄文時代は女系社会だった、そして”母性社会”であった」、と上田は主張します。「母性原理が優先する母性社会は、平等を旨とするから人々の競争は起きず、したがって社会も進歩しないが、ために弱者の切り捨て、抗争、戦争、環境問題の激化などを引きおこさない」と上田は続けて説明します。
そうして縄文時代は1万年をはるかに超える長い期間にわたって続くのですが、そのことと縄文時代が地球環境史上温暖な時期にあり、中緯度に位置するの日本では気候が穏やかであり、そのため農耕や採取が容易にできたため他の集落を攻撃して食料を略奪する必要もなかったということが大きかっただろう、と小塩丙九郎は考えます(縄文時代の食料は主に狩猟や漁と採集によっていましたが、すでに米作も始まっていたと考えられています)。
当時の日本人は、平均して30歳ぐらいまで生きたといっていいと思います(15歳まで生きた人の平均余命は31.3年という推計があります。ただし、乳幼児死亡率が高かったので、平均寿命は15歳程度と推計されています。もちろん中には60歳くらいまで長生きした人もいます。現代人の3分の1ほどの長さの人生でしかありませんが、現代人に比べて死に対する恐怖心は随分と小さかったのではないかと思います。
なぜなら当時の日本人は自然のそれぞれの部分、太陽や月、山や川、あるいは1本の大木など、が神であり、生物の魂は自然の中を永遠に経巡っているのであって、死んだ人の魂はなくなるのではなく新たに生まれる別の生き物の中に宿されるのであって、それが幾代か繰り返されると、やがては再び新たに生まれた人の中に宿ることとなると考えていました。死んだ人は、そうして蘇ると信じられていたのです。輪廻〈りんね〉の思想です。
つまり、当時の先端文明の下ではない原始的世界に住んでいた人々の多くは、そのように神々や死についての原始的な観念を持っていたということです。厳しい砂漠に近い環境の下で暮らした人々と違って、恵まれた優しい自然環境に住んだ人々は、自然の恵みに感謝し、恵みをくれる自然が一つ一つ神であるという多神教に区分される宗教観をもったということでしょう。
縄文時代は、現代に比べると随分と人口が少なく、散漫な地域が広がっているように思えるかもしれませんが、自給自足を原則にしながらも、小規模な集落が互いに”通い婚“という形で密接につながっていた平和な連帯社会であったと言っていいでしょう。当時は温暖な気候に恵まれ、食料の量は安定していたので、集落間で食料を奪い合う争いを起こす必要もありませんでした。そのうえ人々に死の恐怖もありませんでしたので、地域に紛争が起きる種はなく、平和な社会でした。
そのように安定した環境で、それぞれの集落は500年から数千年間にもわたって維持された、と考古学者は見ています。思えば、日本人がその歴史の中でもっとも幸福であったのが縄文時代であったと言って間違ってはいないと思います。
現代人は、時代が下るにつれて豊かになったと信じているのですが、しかし縄文時代の日本人のありようを見ると、本当にそうであったか?、と自問せざるを得なくなります。
紀元前6千年の頃をピークとして、地球は次第に冷たくなります。そしてそのことは、日本人のみならず世界の中緯度に住む現在の先進国と称せられる国々に住む人々に、食料を確保するために農耕や狩猟を効率的に行うための技術開発を行わせ、そしてそれでも不足する食料を互いに奪い合う社会に変わっていきます。
そして狩猟の道具を開発する技術は転化して新たな武器をつくる技術となり、そのことは大規模な殺し合いを伴う集落間の争いを起こさせ、そしてそれに勝ち残る集落が複数の集落を支配下において、それが国家へと発展することになります。
日本人は、幸せな縄文の時代から脱し、地域間の争いの時代に入り、そして効率的な支配体制をつくるために人々は原始的な平等の時代から身分格差の大きな古代国家体制へと移行することになりました。
しかし残念なことに、文明社会を築く技術開発と同じほど速く、人々の心の安寧を実現する心を制御する技術の開発は進まなかったのです。地域の人すべてに等しく優しかった神々が、国家の誕生と共に支配者の道具に利用されるようになりました。
投稿者 tanog : 2021年03月25日 TweetList
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