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2017年09月07日

「教科書の嘘を検証する」第6回~教科書では武士が登場した理由が書かれていない!

第6回は武士の登場の部分です。武士が地方発なのか都発なのか?教科書は都発という立場をとっています。武士の起源やその後の武士の発展を見ると、都発とは言えない部分が多いと思われます。それはなぜ武士が誕生したのかという要因を見て行く事で見えてきます
教科書の記述を先に書き、おかしな部分にアンダーラインを入れて後で書き換えを試みます。

武士の登場)
10世紀になると都や地方では武士は成長し始めました。武士はもともとは弓矢や馬などの戦いの技術に優れた都の武官や地方の豪族たちで、朝廷や国府の役人になって、天皇の住まいや役所の警備、犯罪の取締りなどを担当するようになりました。
都では貴族に仕えて屋敷を警備する武士もいました。都の武士が地方の役職に就いてそのまま住みついたり、地方の武士が都に上って朝廷に仕えたりすることもありました。このように武士は都と地方を行き来しながら、朝廷や国府では貴族との繋がりを通じて、社会の中での地位を高めていきました。
やがて地方の武士たちは貴族を主人にむかえ、多くの家来を従えて武士団を作るほどに成長していきました。10世紀の中頃、北関東では平将門が、瀬戸内海では藤原純友が朝廷の政治に不満を感じてそれぞれの周辺で武士団を率いて大きな反乱を起こしたのは武士の成長の現れです。一方朝廷も武士団の力によってこの反乱をおさえることができたため、武士の力が認められるようになりました。

武士団と荘園)
成長した武士団の中でも天皇の子孫である源氏と平氏が有力でした。11世紀後半には東北の武士同士の争いをきっかけにした大きな戦乱(前九年、後三年合戦)が起こりました。この争いをしずめた源氏の源義家が東日本に勢力をひろげ、東北地方では平泉を拠点にした奥州藤原氏が力を持ちました。12世紀前半には瀬戸内海の海賊をしずめた平家が西日本に勢力を伸ばしました。
地方の武士は地位や武力を利用して土地の開発を進め、領地を都の皇族や貴族、寺社に寄進しました。こうした荘園では武士が年貢を農民から集めて納める代わりにその土地を支配する権利を保護してもらい、力をのばしました。一方荘園以外の国司が支配する土地(公領)でも武士が犯罪の取り締まりや年貢の取立てを任されるようになりました。こうして11世紀の後半には武士は荘園や公領に館を築いて地方の中心になっていきました。

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教科書の記述では・・・
都の警護団が成長して地方の警護団になっていったとあります。そもそもなぜこのように警護や犯罪防止の必要が生まれたのか?そこに言及はされていません。なぜ武士が登場したのか、そこから展開していきたいと思います。
また最も押さえておきたいのが、日本の武士は略奪の為ではなく防衛の為に登場したという事実です。さらに武士が作った社会とは都中心の社会ではなく地方を中心とした自治の社会だった事それが日本の中世から江戸までかけて登場した封建社会だったのです。
これは日本の歴史を貫通して把握する上で極めて重要な歴史認識だと思われます。以下のように書いてみました。
(赤書きが書き換えた部分)

武士の登場)
10世紀になり、それまでの唐を真似ただけのかりそめの律令制が崩壊し、朝廷中心の支配が崩れ、社会全体の治安が悪くなります。
併せて荘園制度の転換に伴い、土地の開発、私有から社会の秩序が乱れ、盗賊が各地に登場します。農村は自ら農地や作物を守る必要が生じ、農村は弓矢や馬術など武力に長けた者を村の用心棒として組織化し、それが武士の登場に繋がります。武士とは侵略や戦争の為ではなく防衛の為に登場したのです。最初は関東地方中心に発達した武士団で、坂東武士と呼ばれています。坂東武士は元々は馬を操る高句麗系渡来人の末裔で武力に長けていました。

同時に都でも武士が登場します。彼らは弓矢や馬などの戦いの技術に優れた都の武官や地方の豪族たちで、朝廷や国府の役人になって、天皇の住まいや役所の警備、犯罪の取締りなどを担当するようになりました。彼らがその後の源氏、平氏といった武士になり中世の時代、地方の武士を取りまとめていきます。
やがて北関東の武士たちに平氏が介入し、武士団をまとめるほどに成長していきました。10世紀の中頃、北関東では平将門が、瀬戸内海では藤原純友が朝廷の政治に不満を感じてそれぞれの周辺で武士団を率いて大きな反乱を起こした事で朝廷と武士の緊張関係が始まります
しかし朝廷が自前の武士団(源氏)の力によってこの反乱をおさえることによって、反乱は収まりますが、その後地方の武士と朝廷の武士との間で激しい勢力争いが発生します。それが後の源平の争いに繋がります。

武士と封建社会
11世紀後半には東北の武士同士の争いをきっかけにした大きな戦乱(前九年、後三年合戦)が起こりました。この争いをしずめた源氏の源義家が東日本に勢力をひろげ、東北地方では平泉を拠点にした奥州藤原氏が力を持ちました。12世紀前半には瀬戸内海の海賊をしずめた平家が西日本に勢力を伸ばしました。地方の武士は土地の開発を進め、領地を都の皇族や貴族、寺社に寄進しました。こうした荘園では武士が年貢を農民から集めて納める代わりにその土地を支配する権利を保護してもらい、力をのばしました。一方荘園以外の国司が支配する土地(公領)でも武士が犯罪の取り締まりや年貢の取立てを任されるようになりました。
こうして11世紀の後半には武士は荘園や公領に館を築いて地方の中心になっていきました。
平安時代の初期、朝廷を中心にした中央集権国家を目指したのですが、平安時代後期には武士たちがそれぞれの土地を治める封建社会に転換し、その自治の政治は長く江戸時代まで続いていきます。

これまでの記事↓
シリーズ~教科書の日本史の嘘を検証する~
「教科書の嘘を検証する」第1回~あまりに少ない縄文記述
「教科書の嘘を検証する」第2回~架空の存在聖徳太子が実在した。
「教科書の嘘を検証する」第3回~大和朝廷とは渡来民の国家
「教科書の嘘を検証する」第4回~百済からの支配者が押し進めた律令国家への歩み
「教科書の嘘を検証する」第5回~平安時代は百済派支配の単独政権

投稿者 tanog : 2017年09月07日 List  

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コメント

終戦までを後鳥羽承久の乱と比較してみる
後鳥羽は裕仁、義時はルーズベルト、
泰時は マッカーサーに とする
アメリカは日本を破り太平洋の覇権確立
しかし後鳥羽と違い 一億総懺悔して軍も政府も国土も差し出して
終戦とし 強力なアメリカを配下に収めた・・・
承久で 西国支配は頼朝には無理、その西国に支配権確立
西国の領を御家人の恩賞として北条帝国を築いた
この歴史を不勉強でした
1215年 マグナカルタ 1232年 御成敗式目
西国は財力をもがれその後 軍事力と警察権は北条帝国に飲み込まれてしまった。その後王政復古など逆戻り、アメリカにより御成敗式目の元に戻してもらった。ようなものですか

投稿者 しらかべ : 2019年6月25日 16:27

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