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2020年12月24日

近年発見されている縄文時代の巨大土木遺産は何を意味しているか?~集団が集団の為に産み出した遺産

最近読んだ本瀬川拓郎氏の「アイヌと縄文」の中に記載された記事を紹介。

縄文時代の巨大土木遺跡が近年次々と発見されており、この遺跡は何のために誰が作ったのかが推察されています。著書では集団が集団の為に産み出した遺産と表現しており、後の古墳時代の権力の象徴としての大型古墳とはそもそも動機が違うと指摘している。またこういう巨大遺産を産み出す縄文時代はそれ自体をもっても物的にも精神的にも豊かな社会であったと指摘しています。もちろんその豊かさとは現在の豊かさとは全く異なりますが、人として生きていく上で必要な心の豊かさであった事は間違いないでしょう。

物的豊かさを超えて次代の豊かさを求め探している現代の人々にヒントを与えるものになるかもしれません。

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著書からの抜粋です。

「圧倒される巨大な土木遺産」

近年、これまでの縄文文化のイメージを覆す巨大な土木遺産が次々と発見されています。北海道の例を見てみましょう。苫小牧の静川遺跡(縄文中期末~後期初頭)は台地の上を環濠で区画した巨大な聖域、斎場です。環濠の巾は3m、区画の長さは140m、面積は1500平方メートルにもなります。壕の中には2件の建物がみつかっていますが、通常の住居ならあるはずの炉がなく、その為の祭祀施設と考えられています。このような壕で区画した巨大な聖域、斎場はほかにも千歳市の丸子山遺跡などで確認されています。

函館市の垣ノ島遺跡(縄文中期末~後期初頭)は斎場や墓地をふくむ集落をコの字形の盛土で囲った遺跡です。盛土の高さは2メートル、長さは160メートル、全体の巾は120メートルにもなります。盛土遺跡と呼ばれるこのような遺跡は本州各地でみつかっています。千歳市のキウス周提墓群(縄文時代後半後期)は円形の竪穴を掘ってそのなかに墓を設け、全体を土塁で囲った共同墓地が群集しています。土塁の直径は最大のもので75メートル、深さは5メートルです。

ここで注目したいのは縄文社会の「豊かさ」がこのような巨大な土木遺産の実現に向けられていたという事実なのです。

キウス周提墓群では、最大の周提墓の土塁の土量は3400立方メートルにもなります。これは10トンダンプカーで600台以上に相当します。50人の人間が工事に従事したとして2か月以上、20人であれば6カ月以上にかかる大工事です。周提墓は共同墓地であると言いましたが、それは首長の死を契機につくられたものであり、強い権威を持つ首長とむすびついていました。首長の死後に亡くなった人々を、それまで使用していた周提墓に葬ることはできません。新しい周提墓の工事をのんびりと数年かかりで行っている余裕はなかったはずです。おそらく十数人ほどの人々がこの工事にほとんど従事していた可能性が高いと思われます。縄文社会はそのような余剰の蓄積と「扶養」も可能な高い生産力のポテンシャルをもつ社会だったので有りその意味ではたしかに「豊かな社会」だったと言えます。
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ではなぜ縄文人はこのような巨大な土木遺産を産み出したのでしょうか。

これらの遺跡に共通するのは、聖域や祖霊を祭る場という、集団の為の施設だったことです。首長の死を契機に作られた周提墓は、縄文社会の階層化と深くかかわっていました。しかしそれは首長個人の墓ではなく、あくまでも共同墓地です。首長はこの共同墓地に組み込まれ、そこから浮上を許されない存在でした。縄文文化研究者の小杉氏はこのような縄文文化の巨大な土木遺跡が「弥生文化以降に顕著になる富の蓄積を背景とした権力や階級という集団間、内の社会的な仕組み」とは関係なく実現したところに縄文時代の一つの特色を認める事ができる」と述べています。

つまり縄文文化の巨大な土木遺跡とは、古墳時代の首長墓である巨大な前方後円墳などとちがって、集団が集団のために産み出した遺産であるという点で縄文文化の特色を示すものである。聖域や祖霊を祭る場という祈りや心にかかわるものであった点にこそ、本質的な意義を認める事ができそうです。縄文文明は「心の文明」といえるものなのです。

私たち本来富や権力や階級といった非対称なものを忌避し、心の連帯をもとめる存在なのだと気づく意味は、現代の社会を相対化する上でけっして小さくないのではないでしょうか。

投稿者 tanog : 2020年12月24日 List  

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